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「許す」「許さない」がわからない

 今年に入ってから紛糾した炎上事例に関連して、「許す、許さない」に関する話題をよく目にするようになった。
 このテの話が出るたびに毎回、私はどこか疎外感を抱いてしまう。さまざまな被害者やサバイバーの恨みや傷つきの感情の話を読むとき、「許す」「許せない」の話が出てくると、そこに、いつもどこか置いていかれたような気持ちになる。

 私は子どもの頃から「許す、許さない」という感情がよく分からない。

 幼少期からのいじめ被害経験や、凶悪犯罪に該当するであろう経験もあるものの、それらの加害者から謝罪があった場合に「許せるか、許せないか」と問われるとよく分からない。どういう行為や心情が「許す」「許さない」に該当するのかが自分ごととして腑に落ちていないのかもしれないし、そういった感情に、特段、区別をつけることを必要とはしていないのかもしれない。

 私は基本的に「罪を憎んで人を憎まず」のスタンスなので、特定の行為やそれによって生じた損害に対してはわりと長期間覚えている。ただ、その行為と「その後も付き合いを続けていきたい人物と判断するか。友好的な態度で接することができるか」は必ずしも連動していない。
 そもそも人間関係のトラブルは、付き合いが濃い・長い人物との間にこそ発生することが多いので「失礼な言動や迷惑行為があった→許さない、縁を切る」としてしまったら誰とも付き合っていけないと考えている。また、自分自身も不適切・失礼な言動をしてしまった経験も多々ある。自分も適宜改めていくので他の人もそうであって欲しい……という気持ちもあるのかもしれない。

(「”悪質ないじめ”と、”失礼な言動”を一緒くたにするのは雑なのでは?」という意見もあるかもしれないが、どういった振る舞いが悪質か否かというのは受け手の感じ方の違いもあり、私が判断できるものでもないのでここでは区別しないでおく)

 ……とはいえ、もちろん、迷惑行為を行った相手との「関わり方を全く変えない」ということではない。「あの件は謝罪があったので蒸し返すつもりはない。けれど、当人が今後、同様の行為をしないという確証は持てないので、今後の関わり方は限定的になってくる」ということは当然ある。

 あと個人的には、「今後はもう関わることはないであろう相手からの悪質行為」よりも、「親しくて交流も多い人物からの、悪意のない言動による傷つき」のほうが、感情のやり場に困ることが多い。
「大好きな友達が、私の大事なものを誤って壊してしまった。謝罪も弁償もあったけど、大事なものそのものが戻ってくるわけではない。友達も悪気がないのは分かるし、弁償済みなのでそれ以上の行為は求めない。でも、壊されたことについて、どうしてもわだかまりが残ってしまう」のような事例の方が、わかりやすく悪人が出てくる出来事よりも気持ちのやり場に困惑する。(そして、そういった感情に対しての向き合い方に関しても、あまり語られることがないように思う)


 私が「許す」「許せない」という感情とは無縁でいられたのは、「転勤族育ちだったから」という要素はとても大きかったと思っている。
 一定期間経てば居住地域が物理的に変わり、交友関係が大幅に変化していたので、もう接点がなくなる人の過去の振る舞いに感情を割く必要性がそもそも生じなかったのかもしれない。また、引っ越し先で覚えなければいけないことも多く、過去のことを反芻する余裕もなくなっていた。そして「いじめた人への恨み」よりも「次の転校先ではどうすればいじめられないか」を考えることのほうが脳内で優先されていたように思う。

 いじめについても言えるが、私はそもそも事件においては、特定の加害者個人の問題よりも、社会構造や人間心理のほうから問題を考えようとする節がある。そういった考え方の傾向もあり、個人を恨んだり許せなかったり……という感情とはあまり縁がなかったのかもしれない。
 いじめ自殺事件などについても、加害者たちが極悪非道な人物であると断罪するようなコメントは多く散見されるが、私は「彼らは特別に悪質な人間性を持った集団なのだろう」とは考えたくない。「人の行為はふとした拍子にエスカレートしていくもの。同じような環境に置かれたら自分もいつそうなってしまうかわからない。どうすれば防げるだろうか」という前提から私は考えたい。

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