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深夜の大通りで寝そべってから、ひとつの小説を手に取るまで

“虚無”へ捧ぐる供物にと
美酒すこし 海に流しぬ
いとすこしを

P・ヴァレリイ

人のいない公園、静まり返った大通り、誰もいない長い廊下、そんな場所が子供の頃から好きだ。

僕は、まだ少年の頃、深夜に家を抜け出してそういった場所を訪れては奇妙な高揚感を得ていた変な子供だった。
深夜、誰のために灯っているかわからない田舎の外灯が碁盤の目状に仕切られた住宅団地を等間隔に照らしているのが、人工的であるはずなのに超自然的に人の出入りを禁じている空間のようで、それが不思議と虚無感と高揚感という相反するような感情を抱かせていた。

大通りに出てみる。
車は一台も走っていない。道路の真ん中で、寝そべってみる。数秒して、誰かに見られるのが怖くなり音を立てないように全力で走ってその場を去る。
この「意味のない深夜の冒険」は、確実に大人になった僕に何か人生を駆動するための燃料を与え続けている。

前述の通り、僕は住宅団地で生まれた。
ホラー映画『クロユリ団地』のようなマンションが乱立しているような団地ではなく、一軒家が碁盤の目のように区画されたエリアに隙間なく並び立っている団地だ。

団地は必ず公園を作らねばならないため、僕の生家の周辺には五つの公園があった。
深夜の公園を訪れた時は、必ずすることがあった。
公園のちょうど真ん中で空を見上げる。
別に星空が綺麗な田舎ではない。ところかしこに工場が立ち、空気はお世辞にもいいとは言えない工業地域だった。
それでも夜空を見上げるのは、そこに外からの視線を感じるからだ。感じたかったから、だ。

学校に忘れ物をして、夜の学校の裏口から校舎に入る。
こういう時には、廊下を思い切り走ってみた。
階段を駆け上がり、薄暗い廊下を、靴下のまま走り抜ける。
誰にも見られないリミナルスペースで異世界を冒険している気分になった。
そして想像する、長い廊下の窓の外から、誰かが自分のことを見ている。

僕は他人よりもたくさん夢を見る。「将来の夢」や「アメリカン・ドリーム」の夢ではなく、「夢占い」や「ナイトメア」の夢だ。
普通の人がどれくらい夢を見るのか、定かではない。だけれど、きっと僕ほどに夢を見る人は少ないだろう。
僕は「体験する夢」を見ることは少ない。僕の夢は、宙空から誰かの視点を追体験する「カメラの夢」だ。

不思議なのは、僕は僕の真後ろから僕の行動を追体験することがある。紛れもなく、夢の主役は僕自身だが、僕は僕を見ている。小説の地の文が、完全に神の視点になるのではなく主人公の内面や内情について語ることがあるが、そのようなものだろう。

僕の言動を見る「僕」は、いったい誰なんだろう?
子供の頃の最大の謎はそれだった。

深夜の大通りの真ん中で寝そべって、誰もいない公園の中央で空を見上げ、静まり返った廊下を思い切り走り抜けて、その自分を外から見る。そんな視線を想像する。
それは、非日常に身を置く自分に、何か美しい意味を付加したかったからなのかもしれない。
視線は、解釈だ。
僕にとって、人生や世界は、世界を解釈することだ。
リミナルスペースの只中でにいる自分を幻視する行為は、世界の歯車の一つであることに精一杯抵抗して、自分を別世界に侵食させる儀式だったのかもしれない。

ポール・ヴァレリーの「失われた美酒」の一節を暗唱できる人は多分たくさんいるだろうけれど、冒頭の引用のように暗唱する者がいれば、それはヴァレリーの熱心のファンではなく、『虚無への供物』のファンだろう。

僕が中井英夫の『虚無への供物』と出会ったのは2015年だ。
大学を卒業して社会人になった年。

いまだに、自分のことをミステリの愛好家として認められないところがある。「ミステリ初心者です」などとおどけて自己紹介をすると、「四大奇書を通読してファンを名乗っておいて初心者ってことはないでしょう」と言われるのだけれど、実際のところ、そこまで多くのミステリを読んできたわけではない。

その中で人生を変えた一冊を強いて選ぶなら、有栖川有栖の『月光ゲーム』だ。この小説の、あえて演じられるお約束が、形式が、ロジックで鮮やかに犯人を特定するその様が、そしてその美しい論理が、僕をミステリに引きつけたグラウンドゼロだった。

『月光ゲーム』が、僕にとっては本格ミステリの「日常」だ。それに続くように読み漁った決して多くはないが趣味と言えそうな幾らかのミステリも、僕の人生の日常であり続けている。

そうして日常が積み重なっていくと、やはり時折、子供の頃の僕が顔を出す。
日常からズレた世界を旅する僕を見る「僕」は誰?

成人して、大学で休まずに講義に出席して、たまに小説を読んだり、物語を紡いだりする。そんな日常の中で、どうにもやめられなかったのが、子供の頃の悪癖だった。
深夜、眠れない時はリミナルスペースを探して彷徨った。知らない道を歩いては、そこに不気味さと静寂を感じ取って、そんな自分を遠くから眺めた。月になった気分で・・・・・・などと言えば詩的にすぎるが、まるで空から眺めるように、自分自身が日常の裏側、少しだけ時空がずれたその空間に溶けているのを幻視するのだ。

三大奇書との出会いは、夢野久作の『ドグラ・マグラ』だったがこれはここまでの文脈のどれとも違う、単なる読書の一つだった。
大学三年だった当時、瀬名秀明の『BRAIN VALLEY』に打ちのめされて、「脳」というテーマそのものに興味を持って「かの奇書」を読んだ記憶があるが、この『BRAIN VALLEY』への関心は「心の哲学」から来たものだから、つまりは「自分を見る自分は誰か?」という子供の頃の根源的な謎に導かれていると言ってもよい。
そう言う意味では、これもまた運命的だ。だが、ここに意味を見出すことは、ほとんどミステリで言うところの「見立て」だ。海に投げ打った少しばかりの美酒だ。

他方で、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』との出会いは、麻耶雄嵩の『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』を読むための布石だった。
僕の言うところの「日常」である『月光ゲーム』以降の読書体験が徐々にリミナルスペースにずれ込み、呑まれていくきっかけとなったのは、まさに麻耶雄嵩の作品だった。
大学卒業の月、一人暮らししていたアパートを引き払って実家に帰ってきた。
その最後のモラトリアムに『隻眼の少女』を読んだのは単なる偶然だったが、これの衝撃はあまりにも甘美だった。
ミステリという枠組み自体を利用するその「イレギュラー・異物感」は、深夜に家から抜け出して奇妙な空間に通ったあの頃の高揚感そのものだった。
この衝撃から抜け出せず、手に取ろうとしたデビュー作「翼ある闇」のモチーフの一つとされていたのが『黒死館殺人事件』で、僕はWi-Fiの無い旅行先のハワイでこれを読破した。
今となっては三度も読み返した『黒死館殺人事件』だが、娯楽の誘惑を断ち切らないと読了できなかったのがいい思い出だ。

こう振り返れば、三大奇書はどれも大好きな作品だけれど、決してそれ自体を読みたくて読み始めたわけではないとわかる。
他の作品の影響を受けて、手に取った作品たちだ。
僕は意識せずに二つの奇書を読了していた。

そして、ここまでの「物語」に、当時の僕は意味を見出していた。
僕は子供の頃、太陽が照らす日常から「月光」の視線を持って非日常のリミナルスペースに思いを馳せた。
大学生になっても、子供の頃の疑問について考え続け、『ドグラ・マグラ』を読んだ。
『月光ゲーム』が僕をミステリに引き込んだ。それが僕の日常となっていった。
『隻眼の少女』が日常となっていた本格ミステリの裏側を見せてくれた。
それに触発されて『黒死館殺人事件』を読了した。

この連鎖の終着点はどこか?
それこそが、まだ見ぬ最後の奇書にあるのではないか?
僕がこのストーリーに酔って、中井英夫の『虚無への供物』を読み始めたのは奇しくも作中の物語が開幕する十二月。

そして、その内容は・・・・・・

・・・・・・と、ネタバレになるのでこれは書けない。
けれど、僕の、この人生は偶然の連鎖によって、強い外からの幻視と視線によって、何か「意味あるものへと向かって」いるという、その見立てに対しての一種の回答がそこにはあった。

本格ミステリが、美しい型の中で、美しい形式の中で、美しく彩られたロジックで、そして無数の「見立て」や「幻視」をもって、僕の中に存在し続けるならば、その墓碑銘が『虚無への供物』だ。

そして、無意味に投げ打たれた美酒は時に波を酔わし、そこに何かを見せてくれる。
例えば、好きなものはただ好きであるだけであること。
例えば、それがただの虚しい人間の性に過ぎないこと。
例えば、それが人生を駆動する底知れないエネルギーであること。

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