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いつも「世界の中心で愛を叫んだけもの」の気持ちばかり考える。

最近アニメの考察とかをよく見ている。
『シン・エヴァンゲリオン』が公開近いのと『ひぐらしのなく頃に業』が面白すぎるから。

どっちも考察と言えばというくらいには世に考察ブームを起こした作品だ。面白くないはずがない。
最近で言えば『ONE PIECE』とか『進撃の巨人』とかだろうか。
こういうものには昔で言えばいわゆる「謎本」出たり、今でいえばyoutubeで考察動画が盛んになったりする。

普通「考察」というと、作品に散りばめられた謎とかこれからの展開予想と言った「作品の中で語られる謎を解き明かすこと」が至上命題となっている訳だが、こういうことだけを考察と呼ぶのかと僕個人としては疑問を呈したくなる。

もちろんそう言った楽しみを否定するわけではない。
いやむしろ言った通りそういう考察を観るのもするのも大好きだ。
しかしそれだけではないと主張したいというだけだ。

やはり文学部卒の僕としては「作者の気持ち」を知りたいのだ。
作者の気持ち、監督の気持ち、僕はそれを作っている人に一番興味がある。
僕の理想を言うのであれば、全ての創作物はすべからく作者の「欲求の昇華」のため作られるべきだと思っている。
その他のキャラクターとか設定とか画とか台詞とかのようなものは、一人でも多くの人間に知ってもらうためのテクニックにしかすぎない。
その創作物で「何をしたいのか」「何を伝えたいのか」これが物語の本質だじゃないのか。

勿論これは理想論だし、そうでないことも重々理解しているのだが、やっぱりそうあって欲しいのだ。

ただし「作者の気持ち」を考えるということは、例えば「こういう事をキャラクターに言わせているのだからきっと作者はこういう嫌な奴だ」と悪意のある切り取りを許してしまう危険性もある。「作品の中で語られる謎を解き明かす」考察と違い、これについては作中で答え合わせが出来ないからだ。しかしまあ、これは創作物の宿命で一度世に発表された作品はだれもその受け取り方を強制することは出来ないのだから仕方ないのだけど。

そういう意味ではエヴァンゲリオンのTVシリーズの25話26話はある意味で創作の究極に至った傑作だと思っている。
聖書を引用したちりばめられた謎も、難解な設定も、物語の行く末も、関係ない。
ただ「心の在り方はこうだ!」と伝えたいことをソリッドに、ソリッドに、していった結果があの「おめでとう」ENDならば、それは一つの表現の行きつく先だと言えないだろうか。

……言えると思うけどな。分かんないかな。分かんないだろうなー。
だって別に「作者の気持ち」とか「創作の本質」とか皆どうでもいいだろ。
それより物語がどうなったかとか、キャラクターがどうなったのかとかの方が気になるし。僕もそう思うよ。だってそれが観たいだもの。

なんか纏まらなくなったので終わります。

誰か分かってくれ。

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