見出し画像

【歳時記と落語】初午

2021年3月23日は、旧暦2月初午の日にあたります。
実はこの日と決まった話があります。

「明烏」です。

落語にはよく道楽息子が登場し、親旦那を心配させています。しかし、かたけりゃええのかというと、そういうわけにはいかず、これはこれでまた心配なんですな。

日向屋半兵衛のせがれ時次郎、部屋にこもって一日中本を読んでいるという有様で、悪所とは無縁の堅物でございます。表に出るというと信心ごと。そんなことでは、世間つき合いにも差し支えると、親旦那は、「遊び人」の源兵衛と多助に頼んで、時次郎を吉原に連れて行き、一晩遊ばせようと目論見ます。
費用は一切日向屋持ちということで、二人は喜び勇んで、時次郎を連れて行こうとしますが、正直に言うて時次郎が来るはずがない。お稲荷さんにおこもりをすると偽って連れて行きます。
遊廓を「神主の家」、女主人を「お巫女頭」だと偽って、時次郎を奥へ上げてしまいますが、いかに堅物の若旦那でも、文金や赭熊に結った女が、上草履の音をさせて廊下を歩いておれば、女郎屋と気づくというもの。
泣いてだだをこねて逃げようとする、二人して、「大門には見張りが貼る付いている。このまま出てきてば、怪しまれて留められて帰してもらえない」と脅かして、部屋へ通します。
若だんなの相手は十八になる浦里という花魁。若旦那の初なところ気に入りまして、「男女の理」というものを一晩とっくりと指南いたします。
翌朝、女に振られて不機嫌な源兵衛と多助が時次郎を迎えに行きますが、若旦那はなかなか寝床から出てこない。花魁に放してもらえないんですな。
二人は、驚くやらあきれるやら。腐った風で、
「じゃあ若旦那は暇なからだ、ゆっくり遊んでらっしゃい。あたしたちは先に帰りますから」
すると若旦那、
「帰れるなら勝手に帰ってごらんなさい。大門で留められるから」

さて、この「明烏」、新内節の「明烏夢泡雪」が元ですが、実は二代目の桂春団治が旅芝居で演じておりました。そして、まだ学生だった手塚治虫が頼まれてイラストを描いておられます。なんと、その現物が三代目の遺品から見つかっております。

もう一つ、初午と言いますと、大阪は和泉にございます信太森神社、通称葛葉稲荷神社を思い出さねばなりません。創建はなんと奈良時代の和銅元(西暦708)年。二月初午の日に元明天皇が楠の神木の化身である白龍に対して祭事を行ったことを縁起としており、信太森神社はその神木を御神体としております。そして、この信太の森が安倍晴明の母とされる狐葛の葉の暮らすところ。

ということで、ここではやはり「親子茶屋」を思い起こさねばなりませんな。

相も変わりませず、落語で若旦那と言いますと道楽物が多ございます。
ここにおりました若旦那もお茶屋遊びにふっけておりまして、まあ毎日のように小言をもろうておりますが一向に応えません。
芸者と親とどっちが大事やと問われれば、親父なんぞは高津の黒焼屋へ持って行っても売れもしないと言い放つ始末。
さて、そういいますとこの旦那、固いように思えますが、こう見えて道楽にかけては若旦那の一枚上手でございます。
気分直しに難波新地へやってまいります。
久しぶりに馴染みの茶屋へまいりますが、運の悪いことに奥の部屋がふさがっておりまして、通りに面した二階の部屋しか空いておりません。「年寄りの隠れ遊び」というので、顔がさすのを嫌うておりますんで、これは具合が悪いわけです。
おかみさんが奥が空いたらすぐに替えるというので、しぶしぶ上がりまして、いつものように「狐釣り」で遊びます。

旦那に扇子で目隠しして、芸妓さんたちが囃します。


釣ろよ、釣ろよ、信太(しのだ)の森の、狐どんを釣ろよ
やっつく、やっつく、やっつくな
釣ろよ、釣ろよ、信太の森の、親旦那を釣ろよ
やっつく、やっつく、やっつくな

さて、そこへ通りかかったのが若旦那。この古風な遊びを見て一座がしたいと茶屋へ入ります。しかしまあ、「年寄りの隠れ遊び」ですんで、おかみさんは当然断ります。
そこで若旦那、
「今日の勘定、何ぼ使こたはるか知らんけど、みなと言ぅたら失礼な。半分私が持たしてもらういうことでどうやろう」
「ちょっと待っとくなはれや。ああ見えて計算高いところのある檀さんだっさかい、その話したら何とかなるかしれまへん」
おかみがお伺いに参りますと案の定、それやったらと旦那も承知をいたします。
普通に一座したんでは興ざめやというので、若旦那を子狐にしてて二階へやり、せんどほたえた後で扇子の目隠しを取ってご対面というはごびになります。


釣ろよ、釣ろよ、信太(しのだ)の森の、狐どんを釣ろよ
やっつく、やっつく、やっつくな
釣ろよ、釣ろよ、信太の森の、親旦那を釣ろよ
やっつく、やっつく、やっつくな

「ちょっと待っとおくれ。年は取りともないもんやな。ちょっとほたえると
息切れしてどんならん。どこのお方か存じませんが、こんな年寄りの隠れ遊びが気に入って一座をしてくださる。ありがたいことで。今後とも……」
そういうて旦那が扇子を取る。若旦那も当然それに倣います。
「せがれやないか」
「あんた、お父っつぁん」
「せがれか。必ず、博打はならんぞ」

まあ、男の道楽は飲む打つ買うと申しますが、飲むと買うをしてしもうてますんで、こうでも言わんと仕方がない。

さて、米朝一門、吉朝の弟子の桂吉弥は「親子茶屋」のマクラで、米團治を引き合いに出してこのように言うております。

「親旦那がいて若旦那がいるというね。よく言うてはりました、米朝師匠がね。落語でわからんことは周りに置き換えて考えるようにてね。あない身近にあるとは思いませんでした。えー、ですから、今から見ていただくのは、ほぼドキュメントと、そういうことでございます。」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?