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映画の原作を読んでみました。『阿弥陀堂だより』南木 佳士

寺尾聡・樋口可奈子主演の映画『阿弥陀堂だより』の原作。
映画は信州での生活が始まったところから話がスタートしますが、小説の方は主人公が高校生の時代から始まって、東京での夫婦生活、挫折までしっかり書き込まれている。とてもリアリティがあって気に入って、一気に読んでしまいました。

小説家でやっていくという理想を掲げてはいるものの、なかなか実現できない(収入につながらない)夫・孝夫を、有能な医者の妻・美智子がさりげなく、でも、しっかり支えています。孝夫は感謝しつつも、かえってそんな妻の前で自信をなくしそうになっていました。

ところが、美智子の流産で状況は一変します。精神的にまいってしまった彼女はパニック障害を発病し、仕事が続けられない状態になります。どうにか日常生活が送れそうにまで回復した頃には、職場の病院に居場所がなくなってしまっていました。夫婦2人は、孝夫の故郷信州の無医村に招かれて、人生の再出発を準備することになります。

とにかく、どのエピソードも丁寧に細部まで書き込まれているのでリアリティがあって、じんわりと心にしみ込んでくるようです。自分の甲斐性のなさを卑下していた孝夫が、病気になった妻に頼られた一言で自分を取り戻した場面とか、パニック障害でどうしても職場にいけない美智子に、彼女の母親がかけてくれた優しい一言とか、ぐっときて泣けてしまいました。

私も不妊治療で何度も何度も不成功経験があるし、子宮内膜症の治療のホルモン剤の副作用で、自分のコントロールがきかなくなって、今までみたいな仕事ができなくなった経験があるから、余計なのかもしれません。

この病気はもしかしたら、人生の後半は前半みたいにつっ走るんじゃなくて、少し生き方を変えてみたらって神様が教えてくれているんじゃないかしら」。そう思えてからの美智子は、かなり精神的に楽になれたように見えます。

美智子は39歳で発病し、本の中では42歳になっていました。治ったのではなく、時が彼女の心身を病の状態に慣らしてくれただけなのかもしれません。肯定の意味での諦めこそが、最高の薬だったような気がします。

病気と治癒の関係ってそういうもんなのよね、きっと。こんなことも分からないで私は医者をやっていたのかと思うとぞっとするわ」。お医者さんの美智子さんならではの、実感のこもったセリフが印象的です。

孝夫の祖母が死んで、風景にぽっかり穴が空いたように淋しい気分を、「お祖母ちゃんも含めて、ここは私のふる里」「私のふる里が半分なくなっちゃったな」という美智子。

そう、そう。このセリフも心にしみます。私も祖母がいなくなった後、信州に帰省する度に、いつも何か足りない思いを抱いています。母がかなり年をとって、祖母のポジションになってから、多少はそういう思いも減りましたが。

小説家の孝夫に向かって、「小説って何か?」と聞くご近所のお梅おばあさんがいいですね。彼女は孝夫に言います。「わしゃあこの年まで生きてくると、いい話だけを聞きてえであります。たいていのせつねえ話は聞き飽きたもんでありますからなあ。

信州の寒村での生活に、2人の心がゆっくり解きほぐれていくのにつれて、読んでいる私の心も和らいでいきます。

この作品は、主人公夫婦の都会的な感覚と、田舎ならではの感性、そして半分「神様」の域に入った阿弥陀堂のお梅さんの微妙な行き違いの描写が見事です。夫婦はお互いの違いを受け入れることで、気持ちが少しづつ田舎の生活にとけ込んでいきます。映画版では、小説のこういう繊細な美点がさくっと削られて美化されているのが残念。

映画版で北信州の私の実家近くの風景を堪能された方は、ぜひ原作を読んでみてください。タイトル画像は、ロケ地になった場所を友達と散策したときの写真です。



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