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今は廃線になった路線。 ずっと見過ごしていたが、今回初めて踏切の部分だけコンクリートで固められていることに気付いた。気付けてよかった。 その後、本屋で三田文学を立ち読みしたことと、今は亡き寝台のキーホルダーをカフェの店員に褒められたことは、地続きのように思える。 万歩計を持っていればよかったな、と思うくらい四月はよく歩いた。京都のとある通りの木の並びを見て、バルセロナの街並みに似ているなと思ったり、風景に風景を重ねて、ほどけていくものと収斂していくものの先を見守ろうという気
2月の仙台、「火星の庭」。そこで、榎本櫻湖さんが書いた萩野なつみさんの詩誌月評を読んでいました。
ピアノ線 奏でる場所にはたてあり戸惑うばかりのきみの無言歌 見晴らしの良い場所の柵がピアノ線に見えたので、北村太郎の「ピアノ線の夢」をほんのり思い出しながら作った歌。 * 贈った口紅をくっきりとつけてきてくれて、無我夢中で二人で踊った。背景に星座が映し出されたとき、「お揃いね」と私の星座スカートをひらりと持ち上げてくれたときの世界のこと。 吹き溜まりの桜がひらり。 いくつも河を渡った。
葉がへたってしまったが、それでもいい。部屋で組み直すこと、場と空気を組み替えること(あるいは組み替えられると信じること)。 キキョウラン、バラ、レースフラワー 詩を少しだけ落とした。明るい夜にもう少しだけ目覚めていたい。
積荷のように生命を搭載して。「病気から逃げてね」と言う。積載量を無視して進む。質量保存の法則無視の女を演じ続ける。
新幹線。 席を間違っていた人と間違われた人が「降りる場所が同じなのでこのままでいましょう」となっていて良かった。 この人以外にも、なぜか私の周りの人たちが綺麗に席を誤っていて、方々に散る人たちのおかげで視界がひらけて、すぐに座るべき人で席が埋まった。 昨年の夏に盟友と行った熱海を通過したところで、ふっ、と何かがほどけた。駅前に足湯があってすごく良かったんだよね。
「こっちの鳥居から入るとミモザ、あっちの鳥居から入ると桜が見れるけどどちらがいい?」 声にふわふわと誘われて、詩集の冒頭に出てくる東京の街で会った。 「関東ではnさんになる気がする」 そう、女の人に言われたとき、自分がここに居を構えている意味もあるのかと思えた。 何軒もお店を回った後のドトールは世界で一番広い場所になった。
この生を一度きりの肉体でやっていることだけで褒められたい日も、まあ、ある。
「127段?」「そんなにはないよ、91段」「93段かな」上りきった石段の段数を互いに問いかける子供たち。「96段だよ」と答えを明かしながら老人が下りていく。 看板に書かれていたから私も知っていた。 耳にイヤホンを挿さなかったから拾えた会話。 看板の存在を無視できるのが子供の特権だとしたら。
昨日は髪を切った(切られてきた)。そして今日は朝の活動を終えた後に、茎や枝を切ってきた。雪柳とラナンキュラス。当然のことだが、刃と刃が触れ合う時の音が全然違う。それは春を切り開く音にもなり得るだろうか。 古井由吉の命日だ。この人の書くものを母国語で読めることのよろこびを噛み締めなければいけない、ということだけは分かる。
使っている路線は何本かに一本、親しい色の電車がやってくる。私はその電車がとても好きで、乗れると、例え遅刻しているときでも「ああ、遅れて良かったな」と嬉しくなる。多分一つの家だと思っている。知っている限り本を読むのに一番適した環境だと思うのだが、なかなか遭遇せず、区間が短いのが残念だ。 電車全体が発している灯りは、昨日降った雪に生命をもたらす。乗らない人からはそう見えているのだと思う。 今日も家から家へ帰って来た。
踏切を待つ間に夜を洗う風が吹く 通り過ぎる電車に浮かぶ 方々へ別れる予定の人々は 灯台の顔をして揺れている 遮断機があがると道が生まれた 真っ直ぐに進むことをこばむ足は 敷き詰められた小石に触れる それは 未完の寄り道 いつか水底で ねむっていた時間に繋ぐ 渡れる川を横断する 遠景にころがる果実に映された、いくつもの呼びかけ 皮を剥くように 拡がるとばり 手招きする一歩手前で止めて 転写される系譜を追う 見ない人の分まで空をみている
何度も衣をつけて高温で揚げ直して、嫌気がさしてくる直前で凍らせる、その温度感、その手触りをいつも持つことができたらどんなにいいかと思う。
言葉っていうのは、自分ひとりのものではないんです。今の時代だけのものでもない。大勢の他人の、これまでに亡くなった人も含めた長い長い歴史からできあがったもので、自分の勝手にならない代わりに、自分が追いつめられたときに支えになってくれる。 古井由吉『書く、読む、生きる』
1月 1/7 琉球詩壇「檻」掲載 3月 「汽水域」朗読会@神保堂(北九州) 4月 個人詩誌「水路」一号発行 5月 文学フリマ東京「BONE 軟骨版」に「まばたきの分配」寄稿 6月 現代詩手帖7月号の詩誌月評にて掲載 7月 たびぽえ6号「ある港町」掲載 9月 詩と思想10月号の詩誌評にて掲載 10月 汽水域3に「記憶へ」「微温を解く」で参加 個人詩誌「水路」二号発行 11月 文学フリマ東京「ギルド」発行 『蝉文学』に「無限遠点」寄稿 …………………………………
あの夏は新文芸坐でタルコフスキーのオールナイトを観ていた。三本立ての最後が「ノスタルジア」で、映像からもたらされる香気に包まれながら、鑑賞で酷使した背中をさすりながら、席を立った。雲が次第に生命めいてくる朝靄の中へ。 目を開きながら見れる夢に祈りたいと最後に思ったのはいつ? 明け方の空の無責任な微笑。そこに差し挟まれる逃げる魚。動かすほどに意志を失う脚がいとおしくて、失った記憶なのかと思った。ここは池袋なのに。 海へ行こう、と思った。「一人で海に行くのは怖い」と言