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【つの版】徐福伝説13・忍者秦術

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。徐福伝説の最終回です。

徐福伝説のバリエーションとして、「徐福が忍者の祖である」という説があります。平安時代をカラテで支配した半神的存在の「ニンジャ」ではなく、いわゆる「忍びの者」の起源譚です。つのも忍者はすきですので、どこでどのようにそう伝えられているのか、最後に調べてみましょう。

◆忍◆

◆殺◆

忍者淵源

「忍者(にんじゃ)」という語が定着したのは、昭和30年代以後に小説や映画作品、漫画などで用いられて普及したためです。それ以前は地方によって呼び名が異なり、乱波(らっぱ)・透波/素破(すっぱ)・草(くさ)・軒猿(のきざる)・物見(ものみ)・奪口(だっこう)・屈(かまり)などと様々に呼ばれました。

1603年にイエズス会が編纂出版した『日葡辞書』には「Xinobi(シノビ)」と記され、「戦争の際に、状況を探るために、夜に、またはこっそりと隠れて、城内へよじ上ったり陣営内に入ったりする間諜」と定義されています。また「スッパ」は「欺瞞・虚言」、「スッパモノ」は「浮浪者や詐欺師」と書かれています。一般的にはシノビと呼ばれたのでしょう。

漢字の忍には「耐える」という意味がありますが、「しのぶ」とは隠れ潜むことで、「隠忍(怒りや苦痛を表に出さず耐え忍ぶ)」という語句の「」にあたります。の方をとったのは隠語でしょうか。

享保19年(1733年)に完成した近江国の地誌『近江輿地志略』には「忍者(シノビノモノ)、伊賀甲賀と号し忍者という」とあり、安政3年(1856年)刊の木下義俊『武用弁略』武兵之弁でも「忍者」に「シノビノモノ」とルビが振られています。

忍びとは、身を隠して堅固な城へも忍び入って情報を得てくる者のことである。ある書には、敵国へ行って様子を探る者を忍びと呼び、どのような人物が忍びとなるのか、また忍びの伝習といったことも伝えられている。彼らは敵の様子を探る第一人者だとされている。その者は近頃言うところの伊賀・甲賀者である。昔から伊賀・甲賀にこの道の上手があって、それが子孫に伝わっている。

要するに間諜、密偵、斥候、工作員、スパイです。英語spyの語源はespy(見つける)で、超感覚的知覚(E.S.P.)とか透破者とは関係ありませんが、このような働きをする者は人類社会の古今東西に存在しました。狩猟や戦争や調略に際して情報を集めるのは基本中の基本ですし、欺瞞情報を流して操ったり、時には破壊工作や放火、暗殺によって解決することもありました。

『オデュッセイア』によれば、英雄オデュッセウスは巨大な木馬を作らせてその中に兵を潜ませ、トロイア人に捕獲させて城内に潜入する作戦を立てました。この時シノンという人が木馬を置いた陣営にひとりで残り、煙をあげて敵軍を呼び寄せます。彼は捕虜になると「この木馬を町に運び込めば決して陥落しなくなる」と嘘をつき、見事に作戦を成功させたといいます。

チャイナの兵法書である『孫子』には「用間篇」があり、様々な間者(間諜)の種類と活用法が記されています。そこにはこうあります。

大軍を千里の彼方へ派遣するとなれば、国家・人民の負担や混乱は甚だ大きい。しかるに僅かな出費を惜しんで事前に敵情を把握しないのは、愚の骨頂である。先んじて敵情を知る者は必ず勝利する。それで間者を用いるのだ。これには5種類あり、因間(現地の一般人を使う)、内間(敵国の官吏を内通させる)、反間(敵の間諜を利用する)、死間(フェイクニュースを流して敵を動かす)、生間(潜入して情報を持ち帰る)という。これらを一斉に動かして悟られないのを神紀(神業)といい、君主の宝である。
ゆえに間者は、全軍の中では君主と最も親しく、褒賞は最も厚く、事を行うには最も秘密である。間者をうまく使うことは難しいが、使わないわけにはいかない。もし間者のもたらす情報が公開前に漏れたら、間者も情報を知った者も皆死ぬ。攻撃したい場所や殺したい人間があれば、必ず事前に上から下までの人員の姓名を間者に調べさせよ。必ず敵方の間者を探し出し、逆に利用し、寝返らせて用いるべきである。これが反間であり、全ての敵情を得ることができるから厚遇せねばならない。
殷が興った時には伊摯(伊尹)が夏におり、周が興った時には呂牙(太公望呂尚・姜子牙)が殷にいた(国内の情報を殷・周に伝え、建国の功臣となった)。聡明で賢い君主・将軍だけが、優れた知恵者を間者として必ず大功を成す。これが兵法の要であり、軍隊が動くための拠り所である。

また、前4世紀にマウリヤ朝マガダ国によるインド統一を助けた宰相チャーナキヤ(カウティリヤ)は、『実利論(アルタ・シャーストラ)』を記したとされますが、そこにも「間諜を大いに活用し、君主は国内外にスパイ網を張り巡らせるべきだ」と書かれています。まさに忍者は紀元前から世界中に存在し、人類の歴史と共にあったのです。

逸物究竟

さておき、日本ではいつ頃から忍者(間者・間諜)が使われていたのでしょうか。縄文時代はともかく、弥生時代・古墳時代には倭人同士や外国と争っていたわけですから、確実にそうした役目の人は存在したはずです。渡来帰化人も大陸や半島から兵法などの先進技術を伝えていますし、巧みに間者を操ったでしょう。記紀神話にも斥候や情報収集に関する話はあります。

『日本書紀』推古紀によると推古9年(601年)、新羅の間諜である迦摩多(かまた)を対馬で捕らえ、上野国へ配流したとあります。国家間の戦争や外交にはスパイがつきものですから、各国は厳しく警戒していました。ただ間者の名が記録されることは当然少なく、PROの間者集団をどこかで養成していたという話も古代には伝わっていません。

「忍び」という呼称は、14世紀の『太平記』に現れます。建武5年(1338年)、足利家の執事・高師直が山城国男山の石清水八幡宮に立て籠もる南朝方の春日顕国を攻めた時、難攻不落の要害のため1ヶ月も攻め落とせませんでした。そこで7月5日深夜、風雨にまぎれて「逸物の忍び」を潜入させ、八幡宮に放火させたのです。これは『中院一品記』『菊大路家文書』など同時代の史料にもあり、史実です。混乱の中で顕国らは逃げ延びましたが、八幡宮は社殿も宝物も灰燼に帰し、師直は「清和源氏の氏神たる八幡大菩薩の社殿を焼くとは」と後世まで非難を浴びることになりました。

また康永3年(1344年)4月、南朝方の武将・児島高徳らは京都の四条壬生に潜伏して夜襲の計画を練り、「究竟の(優れた)忍びども」を集めていました。しかし所司代の都筑入道に露見し、200余騎の兵がアジトを取り囲んだため、立て籠もっていた「死生知らずの」兵らは屋根の上に駆け上がり矢が尽きるまで応戦した後、腹をかっさばいて死んだといいます。彼らは戦闘に長けた傭兵的存在で、放火や破壊工作を行い敵軍を混乱させる技術を持っていました。戦乱の時代には必要不可欠な存在だったのです。

伊賀甲賀

このような忍びたちは全国各地に分布していましたが、特に重要視されたのが伊賀と甲賀の忍びです。彼らは山深い要衝の地の土豪たちで、自然と情報収集や山での行動に長け、狩猟や山で採れる薬草の行商などを行いました。周囲の権力者たちは彼らを雇い、忍びの者として用いたのです。

1578年から1581年に及ぶ「天正伊賀の乱」で、伊賀国は織田信長に征服されました。多数の住民が殺戮され、忍びたちは諸国へ逃げ散って雌伏しましたが、翌1582年(天正10年)6月に本能寺の変が起き、信長は自刃します。

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この時、堺にいた徳川家康は河内・宇治を経て信楽に向かい、甲賀と伊賀を抜けて伊勢へ行き、本国・三河を目指しました。この「伊賀越」を助けたのがまさに伊賀と甲賀の忍びたちであり、先祖が伊賀の土豪・服部氏であった家康の家臣・服部半蔵正成でした。

この功績により、彼は伊賀・甲賀の忍びたちを率いるよう命じられ、続く天正壬午の乱、小牧・長久手の戦いでも活躍しました。

忍術秘伝

江戸時代、忍びたちは徳川政権を維持するため各地の内情を探る諜報員となりましたが、それもごく一部のことで、多くは土豪として武士や農民になるか、浪人や軍学者や出家として放浪する事になっていきます。

延宝4年(1676年)、伊賀の郷士・藤林保武が伊賀や甲賀に伝わる忍術を集め『萬川集海』を著しました。これは失われゆく忍術を後世に残すと共に、自分たち忍者が太平の世においても必要で有用な存在だとアピールし、幕府や諸藩に召し抱えられたいという思いから編纂されたものです。

延宝9年(1681年)には紀州の新楠流軍学創始者・名取正澄(藤林正武)により『正忍記』が、承応から享保12年(1652-1727)にかけては岡山藩の伊賀者により『忍秘伝』が著されています。その他にも江戸時代には多数の忍術伝書が編纂されました。

江戸時代や戦前のフィクションに登場する「術士」「忍術使い」は、こうした忍術を使う盗賊や武芸者をいいます。明治から戦前までは『正忍記』が忍術書として有名でしたが、戦後には『萬川集海』が小説や漫画で広く知られるようになりました。現代の忍者像は戦後に成立・発展したものです。まあつのは忍者に関してあまり詳しくないため、詳しくは各自お調べ下さい。

徐福と忍者

さて、本題です。徐福を忍者の祖とする説は、どこから始まったのでしょうか。『萬川集海』によれば、忍びの道は「羲帝(伏羲)より始まり、軒轅黄帝が推し弘めた」とありますから、チャイナでは神代である三皇五帝の時代には既に存在したことになります。

『日本書紀』や『先代旧事本紀』に登場し、神武東征の時に将軍となった道臣(みちのおみ)命が「歌を合図に敵を不意打ちで殺した」のが忍術の始まりともいいます。子孫の大伴氏は軍事氏族としてヤマト王権に仕えましたから兵法は使ったでしょうが、騙し討ちならスサノオが先です。

『忍秘伝』では「漢の高皇帝(劉邦)の時」としますが、孫子より後ですから遅すぎます。しかし異説として、徐福が忍術を伝えたとも記しています。同書や、天正伊賀の乱の百年後に書かれた菊岡如幻の『伊乱記』によれば、徐福らは熊野から薬草を求めて北上し、伊賀に到着して医術・養蚕・機織りなど先進技術を伝えました。その中に忍術も含まれていたというのです。

徐福は御色太夫(おいろたゆう、御弓路太郎、御由路大夫、御色多由也とも)を連れて来ましたが、伊賀の民はこの人物から謀術(忍術)を習い伝えたといいます。『忍秘伝』の奥書には、この人物は女性であると記されています。また徐福本人だったという説もありますが、とすると徐福は女性だったのでしょうか。御色太夫とは色っぽい名ですが、名前からして全くチャイニーズっぽくありませんし、御色(おいろ)は和語での訓読みです。

徐福云々は、御色太夫という伝説上の人物にさらに架上したものでしょう。熊野から伊賀にやって来そうな太夫というと、熊野の祈祷師である御師(おし)かと思われます。修験者・山伏は日本全国を巡り歩いて情報を収集し、薬草を収集・売買したことから忍者の原型とも言われます。熊野権現=徐福とした中世日本神話の文脈においても、忍者・忍術の起源を伝説の徐福に遡らせた、というのはありうることです。また伏羲や黄帝、孫子よりは遥かに後の人物ですし、方士や神仙として神秘性もありますから、徐福がチャイナから日本に忍術をもたらした、とするのは物語性があり辻褄があいます。

『太平記』等には、伊賀で四鬼を率いて乱を起こしたという藤原千方(ふじわらの・ちかた)の伝説が記されています。彼は藤原秀郷の孫とも言われ、四鬼の妖術で官軍を翻弄しますが、紀朝雄が詠んだ和歌のコトダマにより、四鬼は恐れて逃げ去ってしまったといいます。また四鬼は忍者であるとも、熊野鬼ヶ城に潜んでいたが討伐されたとも伝えられます。役小角も鬼を使役しましたが、これも忍者でしょう。鬼は漢語で亡霊を意味し、オニは隠(おぬ)が変じた語ともされますから、隠忍を語源とする鬼と忍びは近い存在なのです。服部半蔵正成も「鬼半蔵」と呼ばれました。

秦氏服部

伊賀衆・甲賀衆を率いた服部(はっとり)氏は、秦(はた)氏と繋がりがあるとも言われます。系譜上は桓武平氏庶流で、『平家物語』に登場する平家長(たいらの・いえなが)を始祖としますが、系譜は例によっていくらでも捏造できます。

服部氏の発祥地は、伊賀国阿拝郡の服部郷(三重県伊賀市服部町)です。服の部と書いて「はっとり」と読むのは、古代に機織(はたおり)の技術をもってヤマト王権に仕えた部(職能組織)である「機織部(はたおりべ)」が「はとりべ→はとり→はっとり」と訛ったものです。機(はた)で布を織ってを造ることから、漢字表記も服織部、織部/服部と縮まりました。

服部に属する部民は、服部首(おびと)など地方の伴造(とものみやつこ)に統率され、さらに服部全体を摂津国の服部連(むらじ)が統率しました。部民が織る布は調(税)として集められ、支配層に納められたり輸出品になったりしたのです。そして機を「はた」と呼ぶのは、秦氏が養蚕や機織りを伝えたからであった…というのですが、既に卑彌呼や臺與の時代にも倭人は養蚕や機織り自体は行っていました。

秦氏はもと「はだ」と読み、着るとに快い絹布を織ることからそう呼ばれたとも、海(わだ)を渡って来たからともいいます。徐福が秦氏の祖で養蚕や機織りを伝えたなら話は繋がりますが、『日本書紀』では応神天皇の時代に弓月君に率いられて百済から渡来したとしますから、徐福より500年以上も後のことです。中世以後は体よく無視されていたようですが。

宝暦13年(1763年)に完成した伊賀・伊勢・志摩の地誌『三国地誌』では、「土俗なべて服部氏を秦人の裔となすは非なり」と書かれています。ということは当時は「土俗なべて服部氏を秦人の裔となし」ていたわけです。秦氏は始皇帝の子孫とも、徐福の子孫ともされていたのですから、「伊賀の服部氏は徐福の末裔だ」という伝説もあったのではないでしょうか。少なくとも「伊賀の民は忍術を徐福たちから学んだ」という伝説はありました。

◆服◆

◆部◆

紀元前から現代まで、数千年に及ぶ徐福に関するミームを追う旅は、ここで終わりとしましょう。ありがとうございました。また何かします。

【ひとまず終わり】

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