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【つの版】ウマと人類史EX50:得宗専制

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 仁治3年(1242年)、鎌倉幕府執権・北条泰時は皇位継承に介入し後嵯峨天皇を擁立しますが、同年6月に世を去ります。孫の経時が跡を継ぎますがまだ19歳で、北条氏の権勢はまたも揺らぎ始めます。

◆鎌◆

◆倉◆


経時政権

 経時は父・時氏が28歳の若さで病死したため、早くから祖父・泰時により後継者として立てられました。北条氏のうち泰時の異母弟の朝時、義時の弟・時房の子の時盛は泰時の晩年に出家引退しており、泰時の弟で最年長の重時(朝時の同母弟)は六波羅探題として引き続き京都に駐在しています。有時(義時の庶子)は仁治2年(1241年)評定衆に加えられますが2年後に引退し、評定衆筆頭には政村(伊賀の方の子)が選ばれています。

 大江広元の親族・中原師員、三浦義村の子・泰村らも健在で、経時は彼らに支えられながら政務を執行することとなります。ただし泰時は叔父の時房をもう一人の執権(連署)として扱いましたが、経時政権には泰時の意向により連署に相当する人物が置かれず、これを不満に思う者も現れます。

 摂家将軍・九条頼経は、執権の経時より6歳年長であり、家来に過ぎない北条氏に従わねばならないのを不満がっていました。経時が元服した時は彼が烏帽子親となり「経」の字を授けていますから、両者は義理の父子でさえあります。そこで三浦泰村・光村兄弟や北条光時(朝時の子、名越家)らは頼経の側近となり、北条氏嫡流となった泰時系(江間家)から執権の座を奪わんと画策します。これを察した経時は、寛元2年(1244年)4月に頼経を将軍職から退位させ、その嫡子に譲位させます。

 頼経の嫡子の母・大宮殿は通綱流の公卿・九条親能の娘で、親能は37年も前の承元元年(1207年)に逝去しているため、外戚が力を持つ心配もありません。経時はこの嫡子をわずか6歳で元服させ、自ら烏帽子親となって頼嗣の名を授け、朝廷より征夷大将軍の官位を宣下させます。将軍が代替わりしたことで泰村・光時らは退けられ、頼経の権威は衰えました。

 しかし頼経は父の道家と同じく「大殿」と称して鎌倉にとどまり、幼い頼嗣の後見人として彼を輔佐します。また自らに同調する三浦光村や千葉秀胤(泰村の妹婿)を評定衆に加え、巻き返しを図りました。同年8月末には西園寺公経が74歳で薨去し、道家は勝手に彼の関東申次(朝廷と幕府の連絡役)の職務を継承し、再び朝廷の実権を掌握します。経時は頼経を京都へ送還しようとしますが不審な火災に遭って失敗し、翌寛元3年(1245年)7月、自らの妹で16歳の檜皮姫を彼の正室とし、7歳の将軍の義父となります。

 ところが経時はこの頃から体調を崩し、9月には正室が病死、自らも一時意識不明になるなど危険な状態でした。2人の子らもまだ幼く、経時は弟の時頼を名代に立てます。寛元4年(1246年)正月、後嵯峨天皇が2歳の久仁親王(後深草天皇)に譲位して院政を開始すると、道家は公経派で不仲だった次男の二条良実を関白から降ろし、四男の一条実経を摂政とします。経時は一時持ち直しますが、同年3月には危篤状態に陥り、閏4月に23歳の若さで逝去します。状況的に頼経派が毒を盛ったとしてもおかしくありません。こうした困難な状況で、時頼は執権の座を継ぐこととなります。

宝治合戦

 時頼は経時の同母弟で、やはり19歳の若年でした。しかも評定衆の大半は頼経派で、鎌倉は一触即発の事態となります。時頼は先手を打って自派の武士を鎌倉に呼び寄せ、流言飛語を流して頼経派を混乱させつつ、鎌倉の出入り口を封鎖して反時頼派を追い詰めます。5月25日、進退窮まった光時ら名越家は時頼に降伏し、6月には三浦泰村らも時頼に恭順しました。頼経派の御家人は追放・配流され、頼経は7月に京都へ追放されます。

 この一連の騒動を、鎌倉末期の史書『鎌倉年代記・裏書』では「宮騒動」と記しています。首謀者が名越光時であることから名越の乱、元号から寛元の乱とも呼びますが、摂関家たる九条家を「宮」と呼ぶことはありません。それゆえ道家らが親執権派の後嵯峨院・後深草天皇を廃し後鳥羽院の皇子・雅成親王(六条宮)、ないし順徳院の子の岩倉宮忠成王を帝位につけようと謀ったためそう呼ばれたとも推測されています。道家はこの嫌疑を必死で否定しましたが、時頼は関東申次の職を彼から剥奪して西園寺公経の子・実氏に授け、翌寛元5年/宝治元年(1247年)には良実が関白を罷免されます。

 後ろ盾を失った反執権派は追い詰められ、三浦泰村・光村兄弟のもとに集まり始めます。泰村は時頼との和解を模索しますが、時頼の外戚である安達氏は三浦氏討伐を強硬に主張し、6月に和平が成立しそうになると一族郎党を率いて泰村の邸宅へ攻め寄せます。仰天した泰村らは防戦しますが、館に火を掛けられて進退窮まり、一族郎党500名とともに自害しました。続いて上総の千葉秀胤も追討を受けて自害します。三浦氏の嫡流は断絶しますが傍流が生き延びて家名を継ぎ、千葉氏は嫡流がそのまま残りました。

 次いで時頼は大叔父の重時を六波羅から鎌倉に呼び戻し、連署(副執権)に据え、彼の娘を娶って後ろ盾としました。建長元年(1249年)には評定衆の下に引付衆を設置し、訴訟裁判の迅速化と公正化を図っています。訴訟制度の改革は兄・経時の頃から行われており、評定衆を3組にわけ5日ごとに裁判を行うといった制度も経時が制定したものです。

 頼嗣は時頼の指導のもと帝王学を学びましたが、建長3年(1251年)末に宝治合戦の残党が謀叛を起こし、これに関わったとして翌年将軍職を解任されます。道家は関与を疑われる中で同年2月に薨去し、時頼は後嵯峨院の庶長子・宗尊親王を新たな征夷大将軍として迎えました(宮将軍)。これで摂関家が幕府に関与することはなくなり、朝廷・院と幕府は利害関係によって結ばれたのです。

得宗専制

 時頼は御家人や庶民の支持を集めるため融和・善政につとめ、康元元年(1256年)3月に重時が引退・出家すると、彼の異母弟の政村を連署に任命して独裁色を薄めています。ただ同年には全国的に疫病が流行し、九条頼経・頼嗣父子も病没し、時頼も罹患して苦しみました。同年11月、29歳の時頼は執権職等を重時の子・長時に譲って出家し、道崇と名乗っています。

 ただしこれは、時頼の嫡子・正寿丸がまだ6歳と幼く、彼が成長するまでの中継ぎ(眼代)として一時的に譲ったものでした。時頼は幕府の実権を手放さず、引退した重時も長時の父として権力を握ったため、執権・連署は形骸化し始めました。翌年、時頼は正寿丸を元服させて後継者に指名します。正寿は宗尊親王を烏帽子親として時宗と名乗りました。

 義時・泰時から続く北条氏江間家で、幕府の最高実力者たる地位に着いた嫡流の惣領を「得宗とくそう」と呼びます。これは徳崇とくすうともいい、時頼が義時に贈った禅宗系の追号に由来するといいます。経時・時頼の父である時氏は執権にはなりませんでしたが、遡って得宗(家)と呼ばれます。重時・長時は泰時の異母弟とその子ですから得宗ではなく分家の赤橋家となり、宮騒動を起こした光時らは前述のように名越家です。時頼は自らの子に執権の座を継がせるため、時政・義時・泰時・時氏の系譜を北条氏の正統・嫡流・惣領と定め、他を分家として格付けしたのです。

 とはいえ、執権を退いた時頼が実権を握り続けることは、幕府の公的な地位である執権より、北条氏一門の私的な惣領(宗主)に過ぎない得宗の方に権力が集中するという事態を招きます。朝廷では天皇より院(上皇)が、摂関家では現役の摂政・関白より太閤(前関白)・大殿が権力を握って来ましたから、その類型ではあります。また得宗も時宗没後は次第に実権を家来に奪われて傀儡に祀り上げられ、幕府滅亡に到ることとなります。

 弘長元年(1261年)11月に重時が64歳で病没し、弘長3年(1263年)11月には時頼が37歳で病没します。執権の長時は翌文永元年(1264年)に引退・出家しますが、時宗はまだ14歳だったため60歳の政村が執権に就任します。その4年後、海の彼方のモンゴル帝国から日本に国書が届きました。

◆蒙古◆

◆襲来◆

 その後のことについては、すでに記事にしていますので繰り返しません。きりもいいことですしここらで一区切りとして、次回からは日本刀についてざっくり調べて行くことにしましょう。

【ウマと人類史:ひとまず終わり】

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