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【つの版】ウマと人類史27・柔然可汗

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 4世紀中頃から5世紀にかけて、モンゴル高原には高車/勅勒(テュルク)と呼ばれる騎馬遊牧民が拡散し、チャイナの長城付近にまで南下しました。鮮卑拓跋部の代国/北魏はこれらと戦いつつ華北を統一し、南の東晋/劉宋と対峙します。撃ち破られた高車に代わり台頭したのが、柔然/蠕蠕でした。

◆茹◆

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柔然可汗

『魏書』蠕蠕伝によれば、柔然(じゅうぜん、中古音ȵɨu ȵiᴇn)とは自称であり、北魏では蠕蠕(ぜんぜん、ȵiuᴇnX ȵiuᴇnX)と呼びました。読みはほぼ同じで卑字を当てただけです。虫や腸がうごめくことを蠕動と言いますが、その蠕です。『晋書』馮跋載記では蝚蠕(じゅうぜん、ȵɨu ȵiuᴇnX)、『宋書』『南斉書』『梁書』では芮芮(ぜいぜい、ȵiuᴇiH ȵiuᴇiH)、『周書』『隋書』では茹茹じょじょ、ȵɨʌX ȵɨʌX)と記します。みな読みは同じで、国によって当てる文字が異なっています。魏書を見てみましょう。

 蠕蠕、東胡之苗裔也、姓郁久閭氏。始神元之末、掠騎有得一奴、髮始齊眉、忘本姓名、其主字之曰木骨閭。木骨閭者、首禿也。木骨閭與郁久閭聲相近、故後子孫因以為氏。木骨閭既壯、免奴為騎卒。穆帝時、坐後期當斬、亡匿廣漠谿谷間、收合逋逃得百餘人、依紇突隣部。木骨閭死、子車鹿會雄健、始有部眾、自號柔然、而役屬於國。後世祖以其無知、狀類於蟲、故改其號為蠕蠕。
 蠕蠕は(鮮卑と同じく)東胡の末裔で、(君主の)姓は郁久閭氏である。その始まりは神元帝(拓跋力微)の末(277年頃)に遡る。ある時、拓跋部の騎兵が一人の奴隷を掠奪して来たが、前髪が眉と同じ高さで揃っていた。彼はもとの姓名を忘れていたので、主人はその見た目(辮髪)から木骨閭(禿頭の意)と名付けた。郁久閭はその訛りである。木骨閭は壮年になると奴隷から解放されて騎兵となった。穆帝(拓跋猗盧)の時、集結の期限に遅れた罪で斬刑に処されそうになったが、逃亡して沙漠や渓谷の間に隠れた。そして同じ亡命者百人余りを集め、(高車の)紇突隣部に身を寄せた。木骨閭が死ぬと、子の車鹿会は壮健で雄々しく、初めて部族をまとめて柔然と号した。彼は我が国(拓跋部)に服属したが、のちに世祖(北魏の太武帝)が無知蒙昧で虫のたぐいのようだとして蠕蠕と改めた。

 柔然と敵対していた北魏の言い分ですから、「先祖はうちの奴隷だった」と蔑んでおり、本当かどうか定かでありません。北魏の敵国である劉宋では高車と同じく「匈奴の別種」とし、劉宋を継いだ南斉では「塞外の雑胡」としており、ともに起源については詳しく記していません。

 車鹿會既為部帥、歲貢馬畜、貂豽皮、冬則徙度漠南、夏則還居漠北。車鹿會死、子吐奴傀立。吐奴傀死、子跋提立。跋提死、子地粟袁立。地粟袁死、其部分為二、地粟袁長子匹候跋、繼父居東邊、次子縕紇提別居西邊。
 車鹿会は、毎年(拓跋部/代国に)馬などの家畜や貂などの毛皮を貢納し、冬は漠南(ゴビの南)に遷り、夏は漠北に還った。車鹿会が死ぬと、子の吐奴傀、孫の跋提、曾孫の地粟袁と続いた。地粟袁が死ぬと柔然は東西に分裂し、長男の匹候跋は東部、次男の縕紇提は西部を治めた。

 376年に代国が滅亡すると、東西柔然は匈奴鉄弗部に服属しますが、391年に北魏の道武帝が大遠征を行い、漠北まで追撃して柔然を服属させます。縕紇提の子の社崙らは捕虜として連行されましたが、394年に脱走して柔然に戻り、伯父の匹候跋を襲撃してその部族を手に入れます。匹候跋の子らは高車や北魏へ逃れました。社崙は匹候跋を殺すと、漠南の諸部族を率いて漠北へ遁走し、北魏の敵国の後秦と手を結びます。

 さらに高車の諸部族を併合して勢力を強め、北西の頞根河(オルホン川)流域にいた「匈奴の余種」を打倒して併合し、西は焉耆(新疆北東部)から東は朝鮮まで、北は瀚海(バイカル湖)から南は大磧(ゴビ)までを支配下におさめました。かつての冒頓単于や檀石槐のような騎馬遊牧民の大帝国が復活したのです。社崙は敦煌・張掖の北(アルタイ山脈)に部族会議の場を設け、自ら「丘豆伐可汗」と称しました。丘豆伐とは魏言(漢語)で「駕馭開張(乗りこなして広げる)」を意味し、可汗とは皇帝のことです。

 カガン(qaghan,khagan)の使用はこれが最初ともされますが、鮮卑系の諸族ではこれ以前から使われていた可能性もあります。チャイナの史料では単于でない各族長を「大人」と記しますが、これがカガンなのでしょうか。カガンの号は単于に代わってテュルク・モンゴル系諸部族に広く用いられ、遠くルーシでもハザールを真似て用いていた例があります。やがてカガンはハーカーン/カーアーン、カーン/カン、ハーン/ハンへと変化しました。

 社崙は百人を一部隊、千人を一軍に編成して各々隊長を置き、一番槍には戦利品を与え、臆病者は撃ち殺したり鞭打ったりしました。また文字はありませんがヒツジの糞で兵を数え、木に刻み目をつけて記録したといいます。野蛮ではありますが勇猛で、北魏は柔然の侵略に手を焼きました。後秦や燕の残党らはこれによって命脈を保ち、華北統一はしばし阻まれたのです。

 409年、北魏の道武帝が皇子紹に暗殺され、その弟の嗣が兄を殺して帝位を継ぎます(明元帝)。社崙は北魏の混乱を突いて侵略して来ますが、翌年討伐されて逃走中に死亡し、その子は幼かったので、弟の斛律が即位して藹苦蓋可汗と号しました。彼は北魏を恐れて侵略しなくなり、遼西に割拠する北燕の馮跋を支援しますが、414年に甥の歩鹿真のクーデターで可汗位を奪われます。しかし同年に社崙の叔父の子の大檀が歩鹿真を倒し、牟汗紇升蓋可汗となりました。彼は北燕などを支援して北魏と争っています。

悦般対蠕

 さて423年頃、柔然は西の烏孫(キルギスとセミレチエ)を討伐し、烏孫は南西へ移動して葱嶺(パミール高原)に遷りました。この時、悦般という西方の国が柔然へ使者を送ったといいます。

 悅般國在烏孫西北、去代一萬九百三十里。其先匈奴北單于之部落也。為漢車騎將軍竇憲所逐、北單于度金微山、西走康居、其羸弱不能去者住龜茲北。地方數千里、眾可二十餘萬。涼州人猶謂之單于王。(魏書西域伝)
 悦般国は烏孫(パミール高原)の西北にあり、代(フフホト)から1万930里(5465km)彼方にある。その先祖は匈奴の北単于の部落である。(西暦91年に)漢の車騎将軍の竇憲が北匈奴を駆逐した時、単于は金微山(アルタイ山脈)を越えて康居(タシケント)に移動し、残党の一部は亀茲の北(天山山脈やイリ地方、ジュンガル盆地)にとどまった。悦般の地は方数千里、人口は20余万ばかりおり、涼州の人は今もなお「単于王」と呼んでいる。

 なんと、北匈奴の残党はここにもいたのです。かつて西匈奴の単于が康居へ逃げ込んでタラスを築き、烏孫と戦ったりもしましたから、悦般はその跡地に住み着いたのでしょう。康居は滅んではおらず、者舌(チャーチュ)という都市国家として継続しています。

 其風俗言語與高車同、而其人清潔於胡。俗剪髮齊眉、以醍醐塗之、昱昱然光澤、日三澡漱然後飲食。其國南界有火山、山傍石皆燋鎔、流地數十里乃凝堅、人取為藥、即石流黃也。
 その習俗や言語は高車(テュルク)と同じで、胡においては比較的清潔である。(柔然の祖のように)前髪を眉で揃えて切り、醍醐(乳製品)を髪に塗ってつやつやさせ、3日後に洗い流して飲食する。その国の南の境に火山があり、山麓の岩石はみな溶け、地を流れること数十里して凝結する。人はこれを取って薬とする。すなわち硫黄である。
 與蠕蠕結好、其王嘗將數千人入蠕蠕國、欲與大檀相見。入其界百餘里、見其部人不浣衣、不絆髮、不洗手、婦人舌舐器物。王謂其從臣曰「汝曹誑我入此狗國中!」乃馳還。大檀遣騎追之不及、自是相仇讎、數相征討。
 彼らは蠕蠕(柔然)と好誼を結ぼうと思い、その王は数千人を率いて蠕蠕国へ入り可汗の大檀と会見しようとした。しかし国境から百里余り進んでみると、蠕蠕の部族の人々は衣服を洗わず、髪を結ばず、手も洗わず、婦人は舌で食器を舐めて汚れをとっていた。王は家臣たちに「よくもわしをたぶらかして、このイヌどもの国に入らせたな!」と言い、国に還ってしまった。大檀は騎兵を遣わして迎えに行かせたが追いつけず、これ以後両国は仇敵となって、しばしば戦いを交えた。

 魏書は北魏の史書ですから柔然/蠕蠕を侮辱していますが、悦般と柔然が敵対していたのは事実のようです。烏孫の跡地であるセミレチエやキルギスを巡って争っていたというのが実のところでしょう。

 429年、北魏の太武帝は柔然を討伐するため大遠征を行い、漠北を蹂躙して瀚海(バイカル湖)まで達しました。柔然は逃げ隠れ、大檀は病死し、子の呉提が可汗となって、しばらく北魏に服属します。こうして漠北を鎮めると、太武帝は436年に北燕、439年に北涼を滅ぼして華北をほぼ統一します。柔然は北涼を支援するため北魏へ侵攻しますが撃退され、南朝劉宋へ使者を派遣して友好関係を結びます。443年、太武帝は再び漠北へ遠征して頞根河に至り、450年には南征して劉宋から河南を奪います。しかし柔然はなおも北方にあって北魏の脅威でした。北魏は柔然を抑えるため西域諸国へ使者を派遣し、448年には悦般と手を結んで柔然に対抗しました。

 悦般の使者は幻人(幻術師)を伴っていましたが、彼は「致命傷を負った人間を蘇生させる薬草」を持ってきたといいます。また悦般には「大術者」がおり、蠕蠕(柔然)が攻めてきたら長雨・狂風・大雪をもたらして敵軍を凍死させるといいます。本当でしょうか。

800px-柔然帝国

 そしてこの悦般は、同時代の史料に見える「エフタル」と呼ばれる集団、あるいはその一部と推測されています。魏書では別に嚈噠(ようたつ、えんたつ)と記される人々です。彼らはインド系史料でフーナ(Huna)とも呼ばれ、4世紀後半のローマ人マルケリヌスはバクトリア地方を襲った「キオニテス」という民族について記しています。いよいよエフタル、フーナ、キオニテス、さらにフン族について調べていきましょう。

【続く】

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