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【つの版】度量衡比較・貨幣11

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 漢の武帝が導入した五銖銭は、紆余曲折ありながらも漢の基軸通貨として流通しました。しかし後漢末には悪貨が蔓延します。

◆漢◆

◆末◆

董卓破銭

 189年、霊帝崩御後の混乱に乗じて政権を掌握した董卓に対し、190年には各地で反董卓連合軍が決起します。これは袁紹が盟主となり、東方諸侯のみならず北の河内郡、南の荊州や益州の長官(刺史・州牧)も呼応します。連合軍は帝都洛陽を包囲すべく進軍しますが、董卓は傀儡天子の劉協を西方の長安へ遷し、連合軍を撃破したのち洛陽を焼き払い、自らも西へ動きます。

 堅牢な関所に守られた陝西盆地は、王莽以後は戦乱や反乱で衰退していましたが、涼州(甘粛)出身の董卓やその部下たちにとっては自分たちの根城に等しく、戦乱で鍛えられた屈強な兵士らも大勢います。しかし天下の多くを敵に回したため、彼らに支払う財貨は不足していました。そこで董卓は、洛陽や長安にいた多数の富豪や反董卓派を粛清し、その財産を没収します。さらに歴代皇帝・皇族の陵墓を暴き、副葬品を掠奪しました。また長安郊外に自らの居城・郿塢を建設し、30年ぶんの食糧と金銀財宝を蓄積します。

 ところが、銭の材料である銅は不足していました。銅山のある益州も反董卓派で、銅が入ってきません。そこで董卓は銅像や鐘を鋳潰し、五銖銭もかき集めて溶融し、小銭を鋳造して流通させようとしました。

悉椎破銅人鍾虡、及壞五銖錢。更鑄爲小錢、大五分、無文章、肉好無輪郭、不磨鑢。於是貨輕而物貴、穀一斛至數十萬。自是後錢貨不行。(三国志魏志董卓伝

 それは大きさ五分で「五銖」の文章もなく、薄くて孔が大きく、表面を研磨してもいない粗悪な銅銭でした。これ以前から庶民の間には、五銖銭の孔の周囲をくり抜いて二枚の悪銭としたものや、削って小さくされた悪銭、私鋳銭などが流通しており、董卓の「五銖銭」はその最たるものです。当然貨幣価値は暴落し、戦乱や飢饉もあり穀物1石が数十万銭にも暴騰しました。旧来の五銖銭はカネモチにかき集められて市場から姿を消し、ついに貨幣経済は破綻して、穀物や布帛、塩など現物による取引が再び主流となったのです。銅銭ではどのみちケツを拭くこともできませんが。

三国鼎立

 董卓は192年に暗殺され、反董卓連合軍も内ゲバで崩壊し、曹操は天子・劉協を奉戴して許に都を置きます。彼は袁紹ら群雄を打倒して天下統一を推し進め、208年には漢の丞相(総理大臣)に任命されます。彼は董卓以前の五銖銭を復活させようとしますが、経済的疲弊から維持できず、穀物と布帛が主要な貨幣となります。

 曹操は屯田制を導入し、兵士や農民に耕作を行わせ、収穫物の5割(耕牛や農具を政府から借りた場合は4割)を納入させました。相次ぐ戦乱や疫病や飢饉、蝗害などにより人々は土地を捨てて難民(流民)化しており、治安が甚だ悪化していたため、彼らを土地に戻して半強制的に農耕を行わせたのです。これにより曹操のもとには多くの穀物や布帛が集まり、天子の威光もあって各地の群雄に対して有利になっていきます。

 204年には税制改革を行い、私有地を耕す民に対しては1畝ごとに穀物4升(0.8リットル)を田租として納めさせ、人頭税をやめて戸(5人家族)ごとに年間絹2匹と綿2斤を課す「戸調制」を開始しました。これは豪族による中間搾取を排除し、国庫に穀物や布帛が直接納入されるようにしたもので、農民にとっては減税となったため非常に喜ばれたといいます。

 豪族が私有地を拡大して富を蓄え、一般農民を隷属させていく傾向は古くからあり、特に後漢では盛んでした。

 208年、曹操は荊州を平定し、揚州に割拠する孫権を討伐しようと長江を降りますが、赤壁の戦いで大敗を喫します。これにより長江以南には反曹操派が残存し、劉備は益州を平定して漢中盆地にまで進出、漢中王を称しました。220年に曹操が逝去し、子の曹丕が劉協から帝位を禅譲されて魏の皇帝となると、劉備は221年に漢(蜀漢)の皇帝を称します。孫権は劉備と対立して魏から呉王の称号を得ますが、曹丕が崩御した後の229年に呉(孫呉)の皇帝を称し、ここに三国が鼎立します。

 魏ではしばしば五銖銭復活が図られましたがうまくいかず、蜀漢では五銖銭の数倍の重さを持つ貨幣を発行して「直百五銖」と名付け、五銖銭百枚分の価値(直)があるとしました。王莽やカラカラがやったやつです。呉の孫権も236年に「大泉五百」を、238年には「大泉當千」を発行しますが、246年に「民意によれば不便である」としてこれらの新貨幣を廃止しています。

戸口減少

 税を国が徴収し、労役や兵役を課すには、人民の数を役所が記録して戸籍を作り、財産や収入状況を査定する必要があります。これはチャイナでも古くから行われ、史書に記録されています。

墾田八百二十七萬五百三十六頃。民戸千二百二十三萬三千六十二、口五千九百五十九萬四千九百七十八。漢極盛矣。

『漢書』地理志によると、前漢末の平帝の元始2年(西暦2年)の人口は5959万4978人・1223万3062戸、墾田は8億2705万3600畝=827万536頃でした。1戸平均は4.87人・67.6畝(1.352ha)です。歳入163億銭として1戸平均1333銭(40万円)弱、1割負担なら1戸平均年収1.34万銭(400万円)です。

 しかし王莽以後の大乱によって戸籍人口は激減し、光武帝が崩御した建武中元2年(西暦57年)には55年前の3分の1、2100万7820人・427万1634戸でした。平和が回復したことで戸籍人口は増加の一途をたどり、桓帝の永寿2年(西暦156年)には5006万6856人・1607万906戸(5648万6856人・1067万7960戸とも)まで回復しました。これも数十年に及ぶ戦乱で激減し、『三国志』魏志張繍伝には「是の時、天下の戸口減耗し、十裁一在」すなわちかつての10分の1しか戸籍人口がいなかったといいます。

 曹丕の子・明帝曹叡の時、杜恕・陳羣・蒋済らは「いま魏は漢の十州を統治しているが、民の数はかつての一州にも及ばず、大きな郡ほどしかない」と奏上しています。後漢では南陽郡の244万人・52万戸が最大の人口を擁する郡でしたから、魏の戸籍人口はこの程度でしかなかったのです。『晋書』地理志では、魏の元帝末年の景元4年(263年)に443万2881人・66万3423戸(1戸6.68人、1戸5人なら331万7115人)と回復しています。

 同じく晋書地理志では、呉の大帝孫権の赤烏5年(242年)に240万人・53万2000戸(1戸4.5人)といいます。ただ晋代の皇甫謐によれば、244年に将軍の朱照日が「呉の兵戸(1戸で1人の兵を出す家)は13万2000戸」と魏に報告しており、280年の滅亡時には人口230万、兵23万、官吏3.2万です。総人口256.2万人の9%が兵士で、逆算して244年頃の呉の実際の総人口は150万人ほどと思われます。36年の間に人口が80万人増えたのです。蜀漢は後主末年の炎興元年(263年)に94万人・28万戸(1戸3.36人)で、兵士も含めると108万2000人。国力は最も低く、戦争ばかりで人口は横ばいと思われます。

 従って三国時代初期の各国の推計人口は、魏が250万、呉が150万、蜀漢が100万となります。三国鼎立して500万人しかおらず、まさしく漢代の人口の10分の1です。後漢代の人口統計では、益州だけでも724万人、荊州南部と揚州などを合わせて800万人以上おり、人口の6-7分の1が戸籍上消滅しています。三国時代末期の人口でも魏が443万、呉が230万、蜀漢が108万として781万人で、漢代の6分の1強程度しかいません。

 戦乱や飢饉や疫病によって相応に死者は出たでしょうが、戸籍人口の減少は即座に「実際に生きている人間の数」が減少したことを意味しません。重税や労役・兵役に苦しむ民は郡県などの庁舎を襲撃して掠奪を行い、自分たちの戸籍を焼き払って、お上に把握できなくします。あるいは豪族やカネモチの私有民となり、彼らに隷属してミカジメを払う代わりに、お上への納税を負担してもらったり、労役を行ったり、私兵となって戦ったりします。太平道や天師道(五斗米道)といった有力な宗教団体に入って庇護を受けることもあります。彼らは国家が戸籍上把握していない民でした。

 魏・呉・蜀漢は、豪族が寄り集まって形成された国家であり、彼らの私有財産である私有民は戸籍に編入できず、税がかけられませんでした。代わりに皇帝は豪族たちの上に乗っかり、彼らを従えて国家を運営します。三国の人口がかつての10分の1や6分の1でしかなかったのは、国家(皇帝・天子・朝廷)が戸籍上で直接把握し、税をかけられる人数がそれぐらいまで減っていたということなのです。

歳入推計

 この人口数から、三国時代初期の歳入を推計してみましょう。農地1頃を持つ5人家族を1戸として、年200斛の収入があるとします。1斛100銭=3万円として収入600万円です。2割を税として取れば、1戸あたりの年間税収は40斛=4000銭=120万円となります。ざっくり計算すればこうなります。

蜀漢:100万人・20万戸、歳入800万斛=8億銭=2400億円
孫呉:150万人・30万戸、歳入1200万斛=12億銭=3600億円
曹魏:250万人・50万戸、歳入2000万斛=20億銭=6000億円
合計:500万人・100万戸、歳入4000万斛=40億銭=1.2兆円

 孫呉と蜀漢をあわせて、ようやく曹魏と同等です。戸籍人口の1割が兵数として、蜀漢は10万、孫呉が15万、曹魏は25万ですから、単独では敵いません。両国が数十年独立を保てたのは、長江や秦嶺という天然の要害があり、曹魏が複数の敵国を抱えていたからです。

 屯田制度の下にある農民や兵士は別にカウントされており、魏が晋に交替すると屯田制度が次第に廃止され、100万戸(500万人)もの民が戸籍に編入されました。晋が呉を滅ぼして天下を再統一した年、武帝の太康元年(280年)には、戸籍人口は1616万3863人・245万9804戸でした。しかし1戸あたりの人数がやけに多く(6.57人)、1戸5人とすれば1229万9020人です。

 これから呉の256.2万人を引けば973.7万人ですが、263年時点で魏が331.7万(または443.3万)、蜀が108.2万ですから合計440万でしかなく、17年間で2倍にもなっています。また『晋太康三年地記』によると、晋は377万戸を有し、呉と蜀を併せてもこの半分に満たなかったといいます。1戸5人とすれば1885万人で、自然増ではなく戸籍把握人口が増えたに過ぎません。

◆兵◆

◆HP◆

 晋による統一は20年ほどしか続かず、西暦300年の八王の乱を契機として天下はまたしても四分五裂し、五胡十六国時代・南北朝時代が始まります。この時代にも様々な五銖銭が鋳造されて流通し、旧銭や私鋳銭も広く用いられました。次回は隋唐に至るまでのチャイナの貨幣を見ていきましょう。

【続く】

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