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【つの版】邪馬台国への旅16・公孫淵

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

倭の女王卑彌呼が初めて魏と関係を持ったのは、景初2年6月西暦238年であると魏志倭人伝に書かれています。公孫康が帯方郡を置いてから30年の歳月が流れました。この間に何が起きたのか、ざっくり見ていきます。ここらへんはWikipediaとかにも書いてありますし、正史『三国志』を読めば理解りますので、知っている人や興味がない人は軽く読み飛ばしてもいいです。

なお、当時のチャイナの暦はユリウス暦・グレゴリオ暦など太陽暦(新暦)ではなく太陰太陽暦(旧暦)で、月初は朔(新月)、月半ばは望(満月)、月末は晦(新月)です。古くは冬至を含む月を正月(第一月)とし、一年十二ヶ月に十二支を割り振って「建子の月」と呼びましたが、戦国時代からその二ヶ月後、立春を含む「建寅の月」を正月とした暦(夏正)が行われます。秦は十月を正月としましたが、漢で夏正に戻しました。従って『三国志』原文における正月は立春の頃(の新月から次の新月まで)で、太陽暦とは1ヶ月ほど遅れてカウントされます。また日付にも干支が用いられていますが、細かくやるときりがないのでざっくりやります。以後、月は旧暦として読んで下さい(必要であればかっこ内に新暦何月と書きます)。

◆如◆

◆龍◆

女王遣使

景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。
景初2年6月(西暦238年7月頃)、倭の女王が大夫の難升米らを遣わして帯方郡に詣でさせ、(魏の)天子に朝献(朝廷で謁見して貢物を献上する)ことを求めた。帯方郡の太守である劉夏は、官吏と将校を遣わして、彼らを京都(魏の都・洛陽)へ送り届けた。

難升米劉夏などが説明もなくいきなり出てきます。帯方郡は遼東公孫氏の支配下にあったはずですが、この時はどうなっていたのでしょうか。魏志倭人伝だけではわかりませんが、『三国志』の本紀や列伝に書いてあります。

公孫恭

西暦220年、魏王曹操が薨去します。彼の子・曹丕は傀儡であった漢の皇帝から帝位を禅譲され、魏の皇帝(文帝)となりました。まだ蜀漢や孫呉は存在しますが、正統な中国王朝として体裁を整えたわけです。遼東公孫氏の二代目・公孫康はこの頃逝去しており、弟の公孫恭が跡を継いでいました。彼は曹丕に祝辞を送って即位を承認し、自らの地位も承認して貰います。

死んだ公孫康にはと淵という二人の男子がいましたが、まだ幼少だったので弟が継いだのです。ただ恭は病弱で息子がおらず、甥の晃を後継者とし、魏の都へ送り込んで忠誠の証(任子、人質)とすると共に、魏の政府と情報をやりとりする窓口(ロビー)としました。淵は遼東で育てられます。

曹丕は天下統一を焦って盛んに孫呉を攻めますが失敗し、西暦226年に40歳の若さで崩御します。この時、22歳で跡を継ぐ息子曹叡(明帝)の後見人のひとりに選ばれたのが司馬懿でした。ほかは皇族の曹真曹休、名門出身の陳羣です。彼らは各方面軍の司令官となり、孫呉や蜀漢と対峙します。ただ曹休は228年、曹真は230年に逝去したため、陳羣は内政面で曹叡を輔佐し、軍事は司馬懿が主に担当することになりました(曹真は後で出て来ます)。

公孫淵

西暦228年、成人した公孫淵は野心を燃やしてクーデターを起こし、叔父の公孫恭を脅迫して遼東太守の位を奪い取ります。兄の晃は抗議しましたが、魏は特に問題とせず、彼の地位を承認しています。恭は殺されることはなく軟禁めいた状態に置かれ、晃は魏にとどまりました。

西暦229年4月、孫権が皇帝を称します。彼は名目上「魏の皇帝の臣下である呉王」でしたが、曹丕の死後も魏が崩壊せず、焦った群臣に突き上げを食ったようです。漢の正統な皇帝を称する蜀漢はいい顔をしませんでしたが、魏との対抗上やむなく同盟を続けます。しかし蜀漢だけではアレだと思ったのか、孫権は同年5月に海路で遼東へ使者を派遣し、公孫淵に同盟を組んで魏と戦おうと持ちかけました。北と南から魏を脅かそうというのです。

三国行政区划(简)

長江の水運で船舶技術に長けた呉ならではの発想です。誰がこの奇策を思いついたか記されませんが、孫策・孫権に仕えた太史慈は東莱郡出身で、故郷で揉め事を起こしたため一時遼東へ亡命していたことがあります。孫堅以来の宿将であった程普や韓当は遼西郡出身ですし、孫呉と遼寧との関係はなくもありません。太史慈らはもう死んでいますし、顧雍・陸遜・張昭らは公孫淵との同盟に反対しています。本籍地が琅邪郡で生意気な若造の諸葛恪あたりが提案したのでしょうか。それとも天下の地図を見て太史慈とかを思い起こした孫権の独創でしょうか。孫呉から派遣された使者は、張剛・管篤・周賀・斐潜・張弥・許安・賀達・胡衛などマイナーな人々ばかりです。

この時の返事は微妙でしたが、孫権は230-231年に夷洲(台湾)と亶洲を探させた後、232年に再び遼東へ使者を送ります。呉の使者は帰路に山東半島の突端で難破し、魏の将軍・田豫に殺されましたが、遼東の使者は呉へ辿り着き「公孫淵は呉の藩国(属国)になりたいと申しております」と伝えました。喜んだ孫権は233年に三度使者を送り、公孫淵に「使持節・督幽州・領青州牧・遼東太守・燕王」の称号と数々の財宝を与えました。

しかし不穏な動きを察知した魏は、河北・山東に軍を動かして圧力をかけます。怯えた公孫淵は呉の使者を斬って首を魏へ送り、「賊を騙して財宝を奪い、悔しがらせてやりました」と報告しました。孫権は激怒して「おれがこの手であいつを殺し、生首を海に叩き込む」とか言い出す始末でしたが、家臣の薛綜の諌めで思いとどまっています。張昭と子供じみた意地の張り合いをしたのもこの時です。のち公孫淵の背後の高句麗とも結ぼうとし、使者を送り込みましたが、あまりに遠すぎて断られ、使者は斬られています。

公孫淵と孫権の使者の往来記録を見ると、孫呉からは3月(新暦4月)から5月(新暦6月)に出発し、遼東からは10月(新暦11月)に出発しています。南風と北風を利用したのでしょう。孫呉の船には確実に帆があり、『三国志』呉志丁奉伝や『江表伝』にも長江を渡る帆船の描写があります。

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出発地は遼東郡18県のうち沓県(大連市金州区)で、ここから山東半島突端の威海市成山角までは直線距離で200km。孫呉の首都建業は現在の江蘇省南京市ですから、成山角から長江河口まで650kmほど、そこから遡って南京市まで350kmほど、合計1200km。1日60kmとして20日で着きます。大連市金州区から遼陽市までは300kmあまりで、歩けば10日です。この日数や距離の報告から、魏は邪馬臺國の日数や位置を「設定」したのでしょうか。

この頃、西方では蜀漢が諸葛亮を総指揮官とし、漢中から陝西盆地へと北伐を繰り返していました。魏は西方総司令官として曹真を置き、230年に曹真が逝去すると司馬懿が代わって諸葛亮と対峙します。234年秋8月、諸葛亮は陣中で病死し、蜀漢はしばらく北伐を控えて国力を休養させることになりました。魏はこの機会に、不穏な動きを繰り返す公孫淵へ目を向けたのです。

遼東討伐

景初元年(西暦237年)、魏は将軍の毋丘険に「公孫淵を都へ召し寄せる」という詔勅を与え、大軍を率いて遼東郡治の襄平県(遼陽市)まで行かせ、遼河西岸の遼墜に駐屯させて圧力をかけました。周辺の烏桓族や、30年前に袁尚に従って遼東に逃げ込んだ漢人までも続々と魏に投降し、公孫淵は窮地に立たされます。

ちょうど大雨が降り続いて遼河が溢れ、毌丘倹は詔勅により撤退したため、公孫淵は燕王を自称して独立を宣言、年号を紹漢と定めました。さっそく魏は青・兗・幽・冀の四州(山東省と河北省)に多数の海船を作らせて遼東討伐の準備にかかります。挑発をかけて暴発させ、大義名分を得たわけです。

景初2年(238年)正月、魏は遼東征伐の総司令官として司馬懿を差し向け、毋丘険と共同で公孫淵を討たせることにしました。出発前、司馬懿は明帝に「何日かかるか」と問われ、「洛陽から遼東まで4000余里(1736km)。行きに100日、戦闘に100日、帰りに100日、休息を60日として1年です」と答えています。計算上は1日40里(17.36km)進むことになりますね。かくて兵4万を率いて出発しましたが、準備や根回しに時間をかけたのか、遼東へ到着したのは100日目どころか夏6月(新暦7月頃)でした。

『後漢書』地理志を見ると、洛陽から遼東までは3600里(1562.4km)で、4000里は玄菟郡です。またGoogle Mapsのルート検索機能で洛陽市から遼陽市までをググると、太行山脈東側を北上して北京経由で遼寧へ向かう通常ルートで1458km(3359里)しかありません。1日36里(15.6km)でも充分間に合うのですが、何をしていたのでしょうか。あるいは遼東の首都を直接包囲し始めたのが6月ということでしょうか。帰路は洛陽から400里ほど北東の河内郡のどこか(河南省新郷市付近)にいたようなので、山東半島から遼東半島へ渡ったわけでもなさそうです。そちらからの別働隊もいたでしょう。

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高句麗王の位宮は部下に将兵1000人を与え、魏に援軍を派遣しました。公孫淵は高句麗から見限られたのです。公孫淵は恐れをなし、恥知らずにも呉に救援を求める使者を派遣しました。孫権は使者を殺そうとしましたが、羊衜が「魏が苦戦するなら公孫淵を助けて恩を着せ、膠着状態なら沿岸を荒らしましょう」と提言したため、それで行こうと援軍を派遣しています。なお、間に合わなかった模様です。

公孫淵は襄平の西方に兵数万を駐屯させて防衛線を敷き、20里(8.68km)以上に渡る塹壕を巡らしていましたが、司馬懿は迂回して背後を突こうとし、敵軍を誘き出して散々に撃破。防衛線は突破され、公孫淵はやむなく籠城します。時に大雨が30日も降り続きましたが、魏軍は撤退せず激しく攻撃し、和議の使者も「公孫淵本人が来い」と司馬懿が突っぱねます。

8月壬午(23日)、公孫淵は子の脩と共に騎兵数百を率いて包囲を突破、東南(楽浪方向)へ逃亡します。魏軍はこれを追跡してすぐに捕捉し、公孫淵らを斬り殺しました。落城した襄平では7000人が殺戮され、屍の山(京観)が築かれました。公孫恭は救出されたものの、洛陽にいた公孫晃たちは連座して死を賜り、ならず者独裁政権「遼東公孫氏」はここに公孫度以来4主49年で滅びました。南無阿弥陀仏、因果応報、諸行無常です。

なお、京都府京丹後市の大田南5号墳と大阪府高槻市の安満宮山古墳からは「青龍三年(西暦235年)」の紀年銘がある方格規矩四神鏡が出土しており、両者は同じ鋳型で作られた(同笵)ことが判明しています。青龍は魏の年号ですから、公孫淵が魏から贈られた(あるいは公孫淵の領国で作られた)ものでしょう。また山梨県市川三郷町の鳥居原狐塚古墳からは赤烏元年(238年)の紀年銘がある対置式神獣鏡が出ていますが、これは孫呉の年号です。孫権が嘉禾から赤烏に改元したのは西暦238年8月で、公孫淵が死ぬ直前か直後です。倭と呉の関係は不明ですが、兵庫県宝塚市の安倉高塚古墳からは赤烏7年(244年)の紀年銘がある銅鏡も見つかっています。銅鏡は呉から来た工人によって倭で作られたともいいます。
赤烏2年(239年)3月、孫権は羊衜・鄭冑・孫怡らに兵を与え遼東に派遣し、羊衜らは魏の将の張持・高慮らを撃って、その配下の男女を捕虜として帰国しました。公孫淵は既に昨年8月に滅んでおり、油断していた魏の駐屯軍と小競り合いしたということでしょうか。あるいはこの月に孫呉へ帰国したのであれば、南風が吹く前なので北風に乗って帰還したのでしょうか。

帯方太守劉夏

さて、景初2年6月(新暦7月)に倭の女王の使者が帯方郡に現れるわけですが、司馬懿は6月から8月まで遼東にいて、帯方郡どころか楽浪郡にも来ていません。6月にはまだ公孫淵は生きています。それで「景初2年ではなく3年だ」という説もありますが、実は既に別働隊がこの地を制圧していたのです。東夷伝韓条にこうあります。

景初中、明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣、越海定二郡。諸韓國臣智加賜邑君印綬、其次與邑長。
景初年間(237-239)、明帝は密かに帯方太守の劉昕、楽浪太守の鮮于嗣を派遣し、海を越えて二郡を平定させた。諸韓国の臣智(酋長)には邑君の印綬を下賜し、その次の位の者には邑長の印綬を与えた。

魏は山東半島から海を渡り、公孫淵の背後の朝鮮半島西部を先に制圧していたのです。かつて漢の武帝が朝鮮王国を攻めた時も、海路で王都平壌を攻撃しました。これが景初何年かは不明ですが、西側へ兵力を向けさせておいて背後を突くなら景初2年の方がよさそうです。魏志明帝紀によると、景初元年9月に洪水(黄河の氾濫)があり、冀・兗・徐・豫の四州に被害が出たため、役人を派遣して災害支援を行っています。翌年にはこの被害もやや収まり、海船も派兵準備もできていたでしょう。

春か夏に山東半島東部から海を渡り、劉昕らは南の帯方郡(ソウル・韓国方面)へ、鮮于嗣らは北の楽浪郡(平壌・北朝鮮方面)へ向かったわけです。成山角から北朝鮮の黄海南道西岸まで200kmほど、3日もあれば着きます。そこから南東へ進み、帯方郡に降伏を勧告して接収すると共に、韓人の酋長たちに印綬を与えて手なづけていきます。相次ぐ魏の圧力や宣伝工作で、この地域は既に魏側に靡いていたのでしょう。そこへ倭の使者が帯方郡を訪れる、というタイミングになります。

しかし東夷伝倭人条では、倭の使者が出会った帯方太守は「劉」です。(きん)は「明け方、明るい」という意味の字で、夏とは音も意味も違いますが、まあなんか明るい感じは似ていますし、別名とか字(あざな)だったのかも知れません。韓遂(字は文約)を韓約と書いたり、郭汜(字は阿多)を郭多と書いたりするようなものでしょうか。もしくは日と斤を昱や旻のように縦に書いた異字がと誤記されたのでしょうか。逆でしょうか。なんとも言えませんが、昕は文字変換で出しにくいので夏とします。なお『日本書紀』神功紀における魏志の引用では「夏」と誤記されています。

◆合縁奇縁◆

◆一期一会◆

こういう状況です。引き続き、倭使が洛陽に到着するまでを見ていきます。

【続く】

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