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【つの版】度量衡比較・貨幣97

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 モスクワ大公国の財政を支えたのは、広大な森林地帯から貢納される毛皮でした。モスクワ・ロシアはこれを求めてウラル山脈の彼方のシベリアまで進出し、海陸を通じて欧州諸国と利害関係を結ぶことになります。

◆MOS◆

◆KAU◆


北東航路

 モスクワ大公イヴァン4世(雷帝)は1547年に戴冠式をあげ、国政改革を行って中央集権を進め、1552年10月に隣国カザン・ハン国を征服してヴォルガ川中流域を支配下におさめます。その翌年、英国から珍客が訪れました。

 英国やフランスから東インド(東南アジアや東アジア)に向かうには、大西洋を南下して喜望峰からインド洋を横断するか、マゼラン海峡を抜けて太平洋を横断するかしかありませんが、ともにスペイン・ポルトガルに阻まれるため容易ではありません。そこで「大地は丸い(地球)のだから、北西か北東に行けば赤道付近を通るより近いではないか」として、北西航路と北東航路(北極海航路)の探索が進められます。しかし北西航路を探索したジョン・カボットらはニューファンドランド島を発見するにとどまり、英国王ヘンリー8世は新航路開拓に興味を持ちませんでした。

 1547年にヘンリー8世が崩御したのち、ジョン・カボットの息子セバスチャン・カボットはスペインから英国へ戻り、北東回りでのキャセイ(キタイ、チャイナ北部)への航路を開拓するプロジェクトを立ち上げました。彼は軍人ヒュー・ウィロビー、探検家リチャード・チャンセラーらとともに「新天地へ向かう冒険商人会社(Company of Merchant Adventurers to New Lands)」を設立し、240人から1株25ポンド(250万円)で出資金を集め、国王エドワード6世と摂政ジョン・ダドリーから勅許を得ます。

 1553年5月、ウィロビーとチャンセラーらは3隻の船を率いてロンドン北東のハリッジ港から出発し、北海を北上して7月にはノルウェー沖を通過します。しかし彼らはスカンジナビア半島北端あたりで嵐に遭遇して分断され、ウィロビーは2隻を率いて東に進みノヴァヤゼムリャ島を発見しますが、天候悪化により西へ引き返したのち、コラ半島北部のムルマンスク付近で飢えと寒さにより全滅しました。

 一方のチャンセラーは1553年8月にコラ半島を南下し、モスクワ北方の湾(白海)に入りました。彼は北ドヴィナ川の河口で地元住民に出迎えられ、モスクワを訪問してイヴァン4世に謁見します。ツァーリは彼を歓迎して英国王への手紙を授け、両国間の友好と貿易を求めました。チャンセラーはこれ以上東へ進むことを断念して帰国の途につき、翌年秋に英国へ戻ります。

 母国では国王エドワード6世も摂政ダドリーも死んでおり、女王メアリー1世が即位していましたが、彼女はチャンセラーを歓迎し、カボットらの会社をモスクワとの貿易を独占的に行う「モスクワ会社」として勅許しました。チャンセラーは1555年に再度モスクワを訪れ、キャセイへの道を探りますが到達できず、1556年に帰国途中で船が沈み死亡しています。カボットは1557年に、メアリー1世も1558年に崩御しますが、モスクワ会社は存続します。

英露通商

 1556年にアストラハンを占領してヴォルガ川の全流域を支配下におさめ、カスピ海への道を確保したイヴァン4世は、1558年には西方に目を向け、バルト海沿岸のリヴォニアへ侵攻します。これに対してポーランド、リトアニア、スウェーデンは連合して対抗し、モスクワはスウェーデンと対立するデンマークや英国と同盟し、長きにわたるリヴォニア戦争に突入します。

 英国女王エリザベス1世はモスクワ大公国との友好・貿易関係を維持し、彼が占領したバルト海の港町ナルヴァに海路で商人を派遣して支援を行いました。スカンジナビア半島を巡って白海を経てモスクワへ至るルートは冬になると通行できず、ノヴァヤゼムリャ島から東へ行くのも困難だったため、英国とモスクワの貿易は主にバルト海経由となったのです。

 英国はヘンリー8世が国教会を設立してスペインなどカトリック世界から睨まれており、ポーランドもリトアニアもカトリックですから敵ではあります。モスクワ大公国は正教で、スウェーデンとデンマークはプロテスタントのルター派を国教とし、リヴォニアにもプロテスタントは大勢いましたが、英国は英国なので国益と商売が優先されます。

 英国は通商のため、イヴァン4世が名乗った「全ルーシのツァーリ」の称号を承認し、見返りとしてモスクワ会社の商人にあらゆる特権を約束させます。そして戦争に必要な武器弾薬をモスクワへ輸出し、毛皮や木材を輸入しました。しかしモスクワはリヴォニア戦争で苦戦し、クリミアやオスマン帝国も敵に回して国際的に孤立しており、深入りするのも危険です。

 この頃は「価格革命」により物価が高騰し、銀の値段は以前の1/3に下落しています。モスクワもこれに巻き込まれたとすると、グリヴナは60万円から20万円に、ルーブリは20万円から6.7万円に、コペイカは2000円から667円に、デンガは1000円から334円に、ポルシュカは500円から167円に下落したわけです。商売上手な英国商人により輸出品も安く買い叩かれ、モスクワはジリ貧になっていきます。

 1567年、イヴァン4世はエリザベス1世へ婚姻を申し入れますが黙殺されます。怒ったイヴァンが英国使節を軟禁すると、英国は粛々と交渉を進めて解放させ、ヴォルガ川とカスピ海を通じてのペルシアとの交渉権や鉱山の採掘権まで獲得する有様でした。英国の支援なしでは戦争継続もままならず、イヴァンはやむなくこれを飲み、毛皮を求めて東方へも進出します。

 大貴族ストロガノフ家はツァーリの権力を後ろ盾にしてヴォルガ川上流域の森林地帯へ冒険開拓団を派遣し、地元住民に毛皮をせっせと集めさせ富を蓄えていましたが、1574年についにウラル山脈を越えてシビル・ハン国の版図まで到達します。ストロガノフ家は事業拡大のためにコサックを雇い、砦を建設して襲撃を防ぎ、河川交通を利用してシビル・ハン国を襲わせます。

 1579年か1581年、ストロガノフ家の傭兵イェルマーク率いる500人余りの部隊は、火縄銃を携えてシビル・ハン国の首都カシリクを襲撃します。しかし1584年には反撃を受けてイェルマークが戦死し、同年にはイヴァン4世も脳卒中で崩御しています。1582年にはリヴォニア戦争も終結しており、モスクワは荒廃しつつも東方の大国として存続します。

 モスクワとの通商や、スペイン・ポルトガルの商船を襲撃して得られた利益により、英国の商業は活性化します。1581年にはオスマン帝国との通商を行うトルコ会社、1583年にはヴェネツィア会社が設立され、1592年には両社が合併してレヴァント会社となります。地中海の覇権を巡ってスペインと争っていたオスマン帝国は、スペインの敵国である英国と手を結んだのです。英国・オランダ・フランス同盟がスペイン・ポルトガルと20年以上も戦い続けられたのは、こうした背景もあってのことでした。

◆陰◆

◆謀◆

【続く】

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