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【つの版】度量衡比較・貨幣99

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1607年5月、英国バージニア会社による植民団は北米大陸東岸に入植し、ジェームズタウンを建設しました。これを皮切りとして英国による北米植民地が少しずつ形成されていくことになるのです。しかしそこには先住民(ネイティブ・アメリカン)の社会がすでに存在していました。彼らについて、特に北米大陸東部の先住民について概観してみましょう。

◆北◆

◆米◆


米先住民

 ヨーロッパ人が15世紀末に到来する以前、南北アメリカ大陸に居住していたあらゆる住民は、全て「アメリカ先住民」と総称されます。ただコロンブスは新大陸を発見したつもりはなく、ここが「インド(Indias、アジア東部)」だと信じていたため、彼らを「インド人(Indios)」と呼びました。ヨーロッパ人が実際のインドに到達し、コロンブスが到達した地がインドでもアジアでもない新大陸「アメリカ」だとされた後も、ヨーロッパ人はここを「西インド」とも呼び、先住民をインディオ/インディアンと呼びました。歴史的経緯はともあれ誤称なので、ここではアメリカ先住民と呼びます。

 考古学的調査や遺伝子分析により、アメリカ先住民は他の人類と同じくアフリカ大陸に起源を持ち、数万年前の氷河期に干上がったベーリング海峡を渡って、ユーラシア大陸から北米大陸に到来したと考えられています。チリ南部のモンテベルデ遺跡は1万4000年余り前に人類が活動していた痕跡を示しており、まずは海岸沿いに南下したようです。彼らは狩猟採集民として南北米大陸の各地へ住み着き、様々な部族に分かれて行きました。

 ユーラシアから北米への移動も一度限りではありませんでした。アメリカ先住民の多くは父系で受け継がれるY染色体のタイプがQであり、これはシベリアのエニセイ川流域に住むケット人にも多く見られます。ただ同じQでもアメリカ先住民とケット人のものはタイプが異なり、アラスカやカナダ北西部に多く分布する言語グループ「ナ・デネ語族」はケット人を含むエニセイ語族と同系統と考えられ、比較的新しい時期に到来したようです。弓矢や金属もユーラシア大陸から少しずつ持ち込まれ、伝播・拡散しています。

 紀元前4000年頃にはアラスカからカナダ北極圏へ人類(サカク人、前ドーセット文化、ドーセット文化)が拡散し、一部はグリーンランドにまで到達しましたが、紀元後1000年頃アラスカに来たトゥーレ人(原イヌイット)が東へ進出し、1500年頃までに彼らに取って代わりました。

古墳時代

 1万年前に氷河期が終わり、大型狩猟動物が姿を消したのち、北米先住民の一部でトウモロコシ、カボチャ、インゲンマメ等食用植物の栽培(農耕)が開始されます。五大湖周辺では天然の鉱脈からを採取して加工することも始まり、土器(陶器)も作られ始めます。多くの地域では引き続き狩猟・採集・漁労が主要産業ではありましたが、様々な物資の交易によって遠隔地の部族が結び付けられ、紀元前1000年頃の北米東部森林地帯にはウッドランド文化と称される文化圏が形成されました。

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Hopewell_Exchange_Network_HRoe_2010.jpg

 これは紀元前1000年頃から2000年ほども続き、前期はアデナ文化、後期はホープウェル文化とも呼ばれます。五大湖の南、現在のオハイオ州を中心として広範囲に交易圏を築いており、社会は階層化し、首長層は見事な副葬品とともに古墳に埋葬されました。

アルゴンキン語族(左)とイロコイ語族(右)

 これらウッドランド文化圏は、アルゴンキン語族イロコイ語族の分布と重なります。彼らは五大湖周辺の森林地帯に居住し、狩猟採集や漁労・農耕を組み合わせた部族社会と交易圏を築き上げたのです。

 紀元500年頃にこの文化圏は気候変動などで衰退し、フォート・エンシェント(古代の砦)文化に移行しました。紀元800年頃、ウッドランド文化圏の影響を受けてアメリカ南東部に形成されたのがミシシッピ文化です。住民はマスコギー語族に属すると思われ、温暖な気候と肥沃な土壌の上に多くの都市や古墳が建設され、見事な芸術品が作成されました。しかし部族国家同士の争いや気候変動によって14世紀ころから衰退しています。ヨーロッパ人が到来したのはこのような時代でした。

 16世紀中頃、フロリダから北米南東部に侵攻したスペイン人エルナンド・デ・ソトらはジョージア州エトワーなどにあったミシシッピ文化圏の都市を襲撃し、焼き払い、疫病を流行させて滅ぼしました。しかし先住民は激しく抵抗し、ヨーロッパ人がもたらした鉄器やウマ、時に銃火器をも導入して、新しい社会を形成していきます。このためヨーロッパ人はソトの襲撃から数十年が経っても北アメリカの内陸に拠点を築くことができませんでした。

部族連合

 17世紀初め頃(伝説では1142年ないし1450年頃)、五大湖のひとつオンタリオ湖の南岸に「ホデノショニ(大きな家を建てる人々)」という部族連合が形成されました。これはオンタリオ湖北岸のワイアンドット族(ヒューロン族)出身のデガナウィダという男の呼びかけによるもので、モホーク族の戦士ハイアワサが彼と協力して諸部族に争いをやめ同盟を結ぶよう呼びかけました。モホーク、オネイダ、オノンダーガ、カユーガ、セネカの五部族がこれに加わり、ワイアンドット族は彼らを「イリアコイ(黒い/真の蛇)」と呼んで恐れました。言語的にはワイアンドット族もイロコイ語族に属しますが、彼らは同盟に加わらず、南のサスケハナ族なども加わっていません。

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Early_Localization_Native_Americans_NY.svg

 1603年、オンタリオ湖から流出するセントローレンス川流域を探索したフランスの探検家サミュエル・ド・シャンプランは、ワイアンドット族からこれを聞き、彼らをイロコワ(Iroquois)と表記しました。これが英語に入ってイロコイ(Iroquioi)となったのです。

 このような部族連合が形成されたのは、東の沿岸部(ニューファンドランド、ヌーベルフランス、アカディア、バージニアなど)に次々とヨーロッパ人が到来し、先住民と交易を行い始めたことと無関係とも思えません。ヨーロッパ人は先住民に交易品のみならず疫病をももたらし、大量の死が彼らの社会を動揺させました。アステカやインカのような帝国こそ生まれませんでしたが、危機を感じたアメリカ先住民は各地で部族連合を形成し、ヨーロッパ人の侵攻に対抗していくことになります。

 彼ら北米東部の先住民に流通していた貨幣の一種は、アルゴンキン諸語でウォンパムピーグ(wampumpeag)すなわち「白い紐」と呼ばれる貝貨です。これはホンビノスガイミゾコブシボラなどの貝殻から作られるビーズ(数珠玉)で、紐で結んで持ち運ばれ、装飾品・装身具・贈り物として用いられました。現ニューヨーク南部のロングアイランド島付近の諸部族(ナラガンセット族など)はこれを盛んに作成し、川沿いの交易路を伝って内陸の部族へ贈り(貢納し)、引き換えに毛皮などを得ていました。

 貝貨はチャイナ、インド、メソポタミア、アフリカ等でも流通した非金属貨幣で、遠隔地から内陸へ運ばれることで貴重品となり、交換手段として用いられました。黒や暗紫色(セワナキ)の貝は白い(ワンピ)ものより価値が高いともみなされたようです。のちヨーロッパ人の入植者もこれを貨幣として採用しますが、それについては後で見ていきましょう。

◆北◆

◆米◆

【続く】

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