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【つの版】度量衡比較・貨幣39

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 鎌倉時代には貨幣経済が浸透し、亡命宋人や海商によって海外交易も盛んに行われていました。しかし1333年、鎌倉幕府は滅亡します。

◆逃◆

◆若◆

悪党跋扈

 13世紀半ば以後、「悪党」と呼ばれる者たちの活動が盛んになります。もとは荘園領主から見て支配体制に逆らい、外部から侵入して来る者たちをそう呼んでいました。これには敵対する他の荘園領主、彼らの雇った武装集団や盗賊の他、諸国を漂泊する旅芸人や遊行僧、海民や蝦夷らも含まれます。彼らは支配体制の外(アウトロー)にあって諸国の物資や情報を融通する存在であり、貨幣経済の流れに乗って活動していました。1258年(正嘉2年)以後、全国規模の飢饉と疫病により多くの農民が逃げ散って流民・悪党と化し、幕府は彼らを盗賊と同一視して討伐命令を下しています。

 また北条得宗家の専制体制が完成し、在地領主層への所領再分配が停止すると、御家人は今ある所領を確保するために分割相続をやめ、惣領(家督相続者)のみに所領を継承させる単独相続へと移行します。惣領は諸方に点在する所領の集約化と在地での所領経営を進め、本所(不在地主)と在地領主および荘官(荘園代官)との間で所領を巡る紛争が起き、幕府や本所の支配体制に対立する者は「悪党」と呼ばれました。さらに所領を相続できなかった惣領以外の者たちも悪党と化し、惣領に背いて反乱したり、盗賊や傭兵集団として各地を暴れまわったりするようになります。逃げ若にいましたね。

 悪党たちは土地ではなく銭と掠奪によって生活したため、同時代の欧州に出現した傭兵たちと同じく、各地の領主からも手軽な武力として雇われました。年貢物資を運搬する流通や護衛を担ったのも悪党たちで、そうした業者を陸運では馬を貸し出すことから馬借《ばしゃく》、海運や河川交通では問丸《といまる》といいます。海賊や高利貸しとして富を蓄えた悪党も多くおり、幕府の秩序を揺るがす油断ならぬ存在でした。

 貨幣経済が浸透するにつれ、年貢も銭で納めることが多くなると、借上・土倉・酒屋といった金融業者が現れ、金銭の貸付を行うようになりました。利率は年7.2割(月6%)や年6割などです。
 また鎌倉時代には為替(かわせ)が現れます。これは「交わす(交換する)」に由来し、御家人が所領から運ばれてくる年貢米や銅銭を直接受け取る代わりに、権利証書/手形によって鎌倉や京都など都市部の勤務地で受け取れるようにするシステムです。同様の仕組みは割符替銭とも呼ばれ、民間業者が都市部に軒を連ねて手数料を取るようになっています。米も銭もかさばるし重いので、チャイナと同じく手形が普及したのです。伊勢参りなどの巡礼者もこうした仕組みを利用していました。
 北条得宗家の被官であった安東平右衛門(入道して蓮聖)は、摂津・和泉など西国の瀬戸内沿岸に所領を持ち、得宗領の管理や海運・金融に携わりました。彼は比叡山と結んで借上を営み、悪党としても知られていました。1284年には摂津守護代となり、1302年に数百貫の私財を投じて播州福泊の港を修築し、1329年91歳の長寿で遷化しました。

建武新政

 1318年に即位した後醍醐天皇は、これら悪党の勢力を利用して鎌倉幕府の打倒を目論みます。1331年には密告を受けて隠岐島へ流されますが、1333年に脱走して本土へ帰還、名和長年・赤松則村・楠木正成ら悪党がこれに賛同して各地で挙兵しました。幕府は有力御家人の足利高氏を京都へ派遣して反幕府勢力を討伐させますが、彼も後醍醐へ寝返って幕府の京都出先機関である六波羅探題を滅ぼします。まもなく新田義貞が上野国で挙兵、5月に鎌倉を攻め落として幕府を滅ぼしてしまいました。続いて九州の鎮西探題も滅ぼされ、後醍醐天皇が日本の政権を握ったのです。

 しかし、後醍醐の政権は鎌倉末期から続いていた混乱を処理しきれませんでした。1334年に元号を改めて建武とし、新たな銅銭「乾坤通宝」に加えて「楮幣(紙幣)」を発行しますが、全く流通しませんでした。各地では北条氏の残党らによる反乱が相次ぎ、1335年には北条時行らが鎌倉を占領。これを奪還した足利尊氏(高氏)は鎌倉において新政権を樹立せんとし、後醍醐政権から離脱します。尊氏は後醍醐による追討軍を撃破し、後醍醐と対立する持明院統の光厳上皇と手を組んで、1336年正月に京都に入りました。

 後醍醐天皇は比叡山へ逃れ、尊氏を朝敵として討伐させます。楠木正成、新田義貞らの猛攻により尊氏は九州まで撤退しますが、ここで勢力を盛り返して東へ進み、正成らを打倒して京都に戻ります。光厳上皇は治天の君となり、弟が即位して光明天皇となり、尊氏は権大納言に任じられて「鎌倉殿」と称し、源氏・武家の棟梁として鎌倉幕府を継承する者となりました。これをもって室町幕府の事実上の開始となります。

 しかし後醍醐天皇は大和を経て吉野山中へ逃れ、「真の三種の神器はこちらにある」と主張して反抗しました。これより1392年に至るまで、日本には南北に二つの朝廷が並立し、互いに争うこととなったのです。

 信濃国の豪族・海野氏は、頼朝の父義朝や木曽義仲に仕えた武家で、三途の川の渡し賃である六文銭を旗印として用いました。北条時行の挙兵にも従い、のち南朝に仕えますが衰退します。戦国時代の土豪・真田氏は海野氏の庶流と称し、同じく六文銭を旗印としています。

年貢物価

 この時代の年貢や物価を見てみましょう。鎌倉幕府が滅んだ1333年、備中国新見荘(現岡山県新見市)は京都・東寺を荘園領主としていました。

耕作者:百姓12名、散田百姓39名
田28.2町からの収穫:米178.1石(1町あたり6石余)
畠64.9町からの収穫:大豆18.4石、粟10.6石、蕎麦21.1石

年貢(1割は荘園代官が取る)
米は収穫の3割=53.9石(銭53.9貫)
畠の作物は大豆0.9石を残し全て年貢
 1升あたり粟は6文、大豆は5.7文、蕎麦は3.5文として6.36貫、10貫、7.4

 残り米7割(124.2石)を51で割ると米2.4石(240升=銭2.4貫=24万円)になります。1人1日1升としても240日ぶんですが、この頃は麦を二毛作の裏作として作っており年貢の対象にならなかったといいますから、庶民は普段は麦とかを食べていたのでしょう。米は年貢用および換金して現金収入を得るための商品作物で、食べるにしてもハレの日の食べ物であり、月三回開かれる市場で現金化されました。

 またこの荘園には鉄を産出する村があり、百姓10名が田10.8町に相当する年貢(1反あたり1貫)を直接銭で納入しています。田畑を質に借金する際も1反あたり1貫が相場でした。その他の年貢も合わせて152.2貫(1522万円)+代官分15.1貫(1割)が、この荘園からの年貢となります。そこからさらに諸経費を抜き、127.6貫(1276万円)が割符(為替手形)で送金されました。代官の収入が150万円しかありませんが、他にも給与とか賄賂とか受け取っていたのでしょう。割符は1枚10貫(100万円)相当で取引されました。

 同年末に国司の使者が83人(うち62人は下人)、馬23匹もの大部隊でこの荘園を訪れ、もてなしを受けました。収穫物から米6.64斗(1斗100文として664文=6万6400円、1人0.8升=800円)と馬用の豆2.3斗(131文=1万3100円、1匹1升=570円)が収穫物から供出され、その他は市場で購入しています。また引出物(御礼金)として銭3貫(30万円)が贈られました。結構な出費ですが、ちゃんともてなさねば何をされるかわかりません。

清酒2.5斗:500文(5万円) 1升20文(2000円)、米の倍
白酒7.2斗:422文(4.22万円) 1升5.86文(586円)、米より安い
大魚1尾:80文(8000円)
スルメ1枚:45文(4500円)
鳥2羽:210文(2.1万円) 1羽105文
ウサギ2羽:190文(1.9万円) 1羽95文
大根5把:25文(2500円) 1把5文(500円)

合計:1472文=1貫472文(14万7200円)
米6.64斗(664文)、豆2.3斗(131文)、銭3貫を足して5貫267文(52万6700円)

 新見と同じく東寺の荘園であった播磨国矢野荘では、守護職赤松氏の家来たちへの引出物、賄賂(秘計)、お見舞い(訪)などのカネがたびたび必要でした。1353年には領地問題解決の御礼に750文、1354年には病気御見舞で350文、同年には兵糧免除のため奉行2人に8貫、従者らに2貫300文。1355年には兵糧免除や領地問題解決のために8貫360文を用いたといいます。

 1356年、若狭国倉見荘の飛び地・御賀尾浦(現福井県小浜市)という海辺の荘園では、塩や海産物が年貢として納められています。内陸部の新見では海産物はハレの日のごちそうでしたが、海岸部では日常品です。

小アジ600尾:200文(2万円)    3尾1文(100円)
トビウオ300尾:150文(1.5万円)  2尾1文(100円)
アジ50尾:100文          1尾2文(200円)
長さ5寸(15cm)のタイ120尾:600文 1尾5文(500円)
長さ1.2尺(36cm)のタイ5尾:150文 1尾30文(3000円)
ワカメ20帖:1貫(10万円)     1帖50文(5000円)
塩7.12石:2貫840文(28万4000円) 1石400文(4万円)、1斗40文、1升4文
寿司桶3つ:750文          1つ250文(2.5万円)
合計5貫790文(57万9000円)

 年貢が払えない農民は、妻子や我が身を奴婢(奴隷)として取り上げられました。1338年、薩摩の豪族池端氏は、200文(2万円)の年貢が払えぬ農民から9歳の男児を奪い取って代わりとしました。流石に非道と咎められましたが、池端氏は「今は飢饉ゆえ、200文は普段の2貫や3貫にもなろうわい」と答えたといいます。

 平安末期から鎌倉時代には人身売買が増加し、自由を失って奴婢や下人になる代わりに衣食住を保障されました。人さらいや人買いが横行し、『安寿と厨子王丸』の説話もこの頃に生まれています。9歳の男児が普段は2-3貫(20-30万円)が相場であったのなら、成人男女はその倍として4-6貫(40-60万円)程度で売買されたのでしょうか。

◆末◆

◆法◆

【続く】

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