見出し画像

【つの版】ウマと人類史:近代編28・回民蜂起

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 19世紀中頃、世界は英国とロシアの両大国がしのぎを削る中で揺れ動いていました。欧州ではクリミア戦争に続いてイタリア統一戦争や普墺戦争が、アメリカでは南北戦争が、日本では長州征伐が、チャイナでは太平天国の乱とアロー戦争が、インドでは英国の支配に対する大反乱が勃発しています。次はクリミア戦争後のオスマン帝国とロシア、その周辺を見てみましょう。

◆回◆

◆転◆

講和停戦

 1856年3月30日、クリミア戦争の講和条約である「パリ条約」が締結されました。締結国はオスマン帝国とロシアに加え、両国と国境を接するオーストリア、オスマン帝国を直接支援してロシアと戦った英国とフランス、後からオスマン帝国側で参戦したサルデーニャ(後のイタリア王国)、特に直接の関係はないプロイセンの七ヶ国です。

 欧州列強にとっても、クリミア戦争の長期化は負担が大きく危険でした。1854年8月、オーストリアとフランスは共同で和平案を各国に送りますが、英露双方とも強硬論が主流で妥協せず、お流れとなります。同年末、オーストリアは英仏両国と同盟し、ロシアと各国が個別に交渉しないことを約束した上で、オスマン帝国側に味方してワラキアとモルダヴィアに進駐します。この両国には1853年にロシアがオスマン帝国の宗主権下から離脱させるべく攻め込んでおり、クリミア戦争開始の直接の原因でした。

 1855年3月(ユリウス暦2月)、ロシア皇帝ニコライ1世が崩御して皇子アレクサンドル2世が即位し、同年9月にクリミアのセヴァストポリ要塞が陥落すると、ロシアは講和に傾きます。英国の経済封鎖に加え、ポーランドやフィンランドでも反乱が勃発しており、決定的な敗戦に至る前に講和しなければロシア帝国は崩壊しかねません。かくて1856年2月にウィーンで各国代表が協議したのち、パリで講和会議が開催されました。

 これによりオスマン帝国とロシアの領土は開戦前に戻され、ボスポラス・ダーダネルス両海峡をオスマン帝国以外の軍艦が通過することは禁止されます(1841年のロンドン条約の再確認)。また黒海およびバルト海のオーランド諸島の非武装化、ワラキア・モルダヴィアなどドナウ沿岸諸国からのロシア軍の撤退、ロシアからモルダヴィアへのドナウ河口部の返還、オスマン帝国領内の正教徒への干渉禁止など、ロシアにとって不利な条件も付け加えられます。これを破れば英国・フランス・オーストリア・オスマン帝国が反撃します。ロシアはやむなくこれを受諾し、クリミア戦争は終結しました。

 オーストリアが英仏と同盟し、ロシアと対立してオスマン帝国と手を結んだことで、ウィーン体制は完全に崩壊しました。ロシアは1848-49年の革命騒動に際しては欧州に出兵して鎮圧に協力し、オーストリアに恩義を着せて影響力を高めていましたが、ここに来て裏切られた形です(どう見てもロシアが悪いのですが)。そこでロシアはオーストリアと敵対するプロイセンに接近し、手を組むことになります。さらに各地へ工作員を送り込み、バルカン半島(当時はまだルメリアとかヨーロッパ・トルコと呼ばれていますが)をオーストリアとオスマン帝国から奪い取るべく陰謀を巡らします。

欧爆薬庫

 この頃、バルカン半島にはモルダヴィア、ワラキア、セルビア、モンテネグロの諸公国があり、ロシア・ハンガリー・オーストリア・オスマン帝国の緩衝国となっていました。宗主権はオスマン帝国にありましたが、正教徒が多数を占め、ロシアの影響を受けやすい地域でした。ギリシアは列強の干渉で独立したのですから、これらも独立を目指そうという動きは強まります。

 1859年、ワラキアとモルダヴィアの両公国は連合し、1861年に国名をルーマニア(ロマニア)と改めます。古来この地域の正教徒はヴラフ(異邦人)と他称され、ワラキアの語源ともなりましたが、自称はロムニ(ローマ人)だったのでそちらを名乗ったのです。セルビアとモンテネグロはルーマニアと同盟し、ロシアと組んでオスマン帝国から独立しようと立ち上がります。しかしロシアはクリミア戦争で大きなダメージを受けたばかりで、バルカンに直接介入しようとはせず、ブルガリアやボスニアなどへ秘密工作員を送り込んで下準備をするにとどめています。

 オスマン帝国は、ロシアに対抗すべく近代化改革(タンジマート)を続けていました。パリ条約締結の直前にはムスリムと非ムスリムの権利の平等、差別の禁止、信教の自由などを盛り込んだ改革勅令を発布し、正教徒らの独立運動を抑え込もうとしています。これは西欧列強の要求に応じてのものでもありますが、ムスリムからは「イスラム教に反する」と反発を受け、キリスト教徒の反乱も抑えることはできませんでした。

 1861年、皇帝アブデュルメジト1世が崩御すると、弟アブデュルアズィズが即位します。彼はアーリ・パシャフアト・パシャら有能な実務官僚に改革を委ねましたが、エジプト外遊や宮殿造営など浪費癖もあり、帝国財政は傾いていきます。ロシアは彼の側近に賄賂を贈るなどして味方につけ、虎視眈々とオスマン帝国を狙い続けることになります。

 とはいえ、ロシアも現状のままでは英国など西欧列強に対抗できないことは明らかでした。莫大な戦費や近代化のためのカネが飛ぶように消え、ロシアは近代化の先輩であるプロイセンから借金してやりくりしていましたがおっつかず、外貨獲得のため農業の近代化を進めます。そしてドイツ農民を受け入れ、1861年には国内の農奴を解放して賃労働者とし、綿花など商品作物を大量生産してカネを稼ぐことにしました。貴族層は反発しますが、皇帝は専制君主の権力でもって近代化を強引に推し進めることになります。

回民蜂起

 オスマン帝国の東にはイランとアフガニスタンがあり、その北には中央アジア諸国がありますが、南の英国と北のロシアの間で緩衝国とされ、衰退していました。しかし英国の影響力はアフガニスタンまでにしか及ばず、中央アジア諸国は次々とロシアに征服されていきます。

 ロシア本土に最も近いカザフ・ハン国は、広大なため早くから三つの部族連合(ジュズ)に分裂しており、ロシアは各々を従属させています。北西部の小ジュズ、北東部の中ジュズは1822年頃にロシアに併合されて直轄統治下に置かれ、南東部(セミレチエ地方)の大ジュズもコーカンド・ハン国に対抗するためロシアに服属しました。

 コーカンド・ハン国はフェルガナ地方のコーカンドにウズベク系ミング部族の首長(ビー)が建てた小国でしたが、ジュンガルを滅ぼした清朝を後ろ盾とし、1800年にはタシュケントを征服して首長がハンを称します。さらにセミレチエ地方にも進出し、清朝とも渡り合って中央アジア東部に覇権を及ぼしたものの、1842年にブハラ・アミール国の侵攻を受けて衰退しました。1847年、大ジュズはロシアに併合され、カザフ・ハン国は滅亡します。

 1852年、ロシアに圧迫され内紛が続くコーカンド・ハン国から、ワリー・ハンという人物が東のカシュガルへ侵入します。彼の家系は中央アジアに広まっていたイスラム教神秘主義(スーフィー)のナクシュバンディー教団の世襲指導者(ホージャ)で、代々カシュガルで尊崇を受けていましたが、清朝に対してしばしば反乱を起こしたためカシュガルを追われ、コーカンド・ハン国に身を寄せていたのです。彼は清朝に処刑された父の仇討ちのためもあり、繰り返しカシュガルに侵攻し、1857年にはついに奪還に成功しました。しかし報復のための暴虐がたたり、数ヶ月で再び追い出されています。

 同じ頃、南の雲南省ではイスラム教徒(ムスリム、回民/パンゼー)が武装蜂起し、大理を首都とする独立政権を樹立していました。続いて1862年には陝西省・甘粛省を中心として回民が武装蜂起し、寧夏や新疆でも回民が呼応します。清朝は太平天国の乱やアロー戦争で滅亡寸前の状態にあり、長く迫害されていた過激派の回民が積年の恨みを晴らすべく決起したのです。

 アロー戦争で列強と講和した清朝は、チャイナにおける唯一の正当な政府として国際的に承認され、太平天国や回民の鎮圧を列強に依頼しました。英国や米国からは義勇軍や傭兵として軍人がチャイナに赴き、曽国藩らとともに太平天国に立ち向かい、1864年にこれを滅ぼします。ロシアもこれを好機としてコーカンド・ハン国に侵攻し、1865年に主要都市タシュケントを占領しましたが、回民の鎮圧には介入していません。

 1865年、コーカンド・ハン国の軍人ヤクブ・ベクは新疆の回民の要請に応じて出兵し、ワリー・ハンの弟らの協力を得て、たちまちのうちに新疆の大部分を占領します(新疆とは清朝にとっての「新しい領土」という意味ですから、中立的には「東トルキスタン」とか「イリ地方/ジュンガリアとタリム盆地/カシュガリア」と呼ぶべきでしょうか)。彼はロシアに服属した本国から独立した王国を樹立し、本国からの亡命者も招き入れ、ロシアにも清朝にも服属せず、10年余りの間この地に君臨しました。英国はロシアとの緩衝国にすべく大使を送り込み、軍需物資などを届けて支援しています。

 1867年、ロシアはタシュケントに「トルキスタン総督府」を設置し、中央アジアの直轄統治を強化しました。翌年にはサマルカンドを占領してブハラ・アミール国を保護国化し(滅亡は1920年)、同年にコーカンド・ハン国も保護国化します。残るヒヴァ・ハン国も1873年に保護国化され、中央アジア西部(西トルキスタン)は以後長くロシアに支配されることになります。

日本使節

 この頃、開国した日本(江戸幕府)は欧米へ使節を派遣し、条約の批准や交渉を行うとともに世界各国を見聞させています。1860年(安政7年/万延元年)にはアメリカ合衆国へ新見正興・村垣範正らが派遣され、小栗忠順らが随行しました。大使らはアメリカ船ポーハタン号に乗艦しましたが、オランダで作られ江戸幕府に送られた西洋式蒸気帆船「咸臨丸」も練習航海を兼ねて随伴しています。この船には勝海舟・ジョン万次郎・福澤諭吉らが乗り込み、ハワイを経て太平洋を横断、サンフランシスコに入港しました。

 一行はパナマ地峡を1855年に開通したパナマ鉄道で横断し(運河はまだありません)、カリブ海から大西洋を経てワシントン、フィラデルフィア、ニューヨークを歴訪、帰路は大西洋を横断して喜望峰からインド洋に入り、バタヴィア(ジャカルタ)や香港を経て帰国しています。

 続いて1862年(文久元年)には欧州諸国およびロシアへの使節団が派遣されました。こちらは英国の蒸気船に乗艦し(福澤諭吉は今回も通訳として同行)、インド洋を通過してエジプトのスエズに上陸、まだ運河はないため鉄道で地中海に出、マルタ島を経てマルセイユに入港しました。

 道中のシンガポールでは日本からの漂流民・音吉と出会っています。彼はモリソン号事件で帰国に失敗したのち、英国の商人として上海などで活動、日本と英国の外交交渉に際しては通訳をつとめました。太平天国の乱で上海が危険になるとシンガポールへ移り、商売を続けていたのです。

 一行はフランス皇帝ナポレオン3世に謁見し「日本では排外(攘夷)運動が高まっており危険である」として開港延期を交渉しますがうまくいかず、英国に渡ってロンドンに入ります。ちょうどロンドンでは第一回万国博覧会が開催されており、英国駐日大使オールコックが持ち帰った日本の骨董品も展示され、好評を博していました。

 一行はオールコックの協力により開港を1868年まで5年間先延ばしすることに成功し、オランダ、プロイセンとも同様の交渉を成立させ、ロシアのサンクトペテルブルクに到着して樺太の国境画定について交渉しますが、こちらは合意に至りませんでした。帰路ではフランスに立ち寄って開港延期交渉を成立させ、ポルトガル、ジブラルタルを経て地中海に戻り、出発から約一年後に帰国しています。こうした激動の世界情勢の中、日本は戊辰戦争と明治維新を迎えることになります。

◆Get me out◆

◆of my cage◆

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。