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【つの版】日本建国04・藤原宮

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

天武天皇の崩御後、皇位は天武の皇后にして天智の娘である鸕野讃良(うのの・さらら)皇女が継ぐことになりました。これが持統天皇で、推古・皇極/斉明に続く3人目の女帝です。どのような時代になることでしょうか。

◆藤◆

◆原◆

持統天皇

日本書紀卷第卅 高天原廣野姬天皇 持統天皇
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_30.html

持統紀は720年完成した『日本書紀』の最後に置かれ、全くの現代史です。とはいえ令和2年(2020年)に昭和末期から平成初期を振り返るぐらいには昔となります。公文書は豊富に現存し、詳細な記録が綴られています。

称制4年改め持統4年(691年)7月、高市皇子を太政大臣、多治比嶋を右大臣とし、百官・大宰・国司もみな異動しました。新政権の誕生です。前年に発布された飛鳥浄御原令に加え、公卿百官の朝礼における振る舞いに対しても詔勅で決められ、綱紀粛正を図りました。9月には飛鳥浄御原令の戸令に従って諸国の国司に戸籍を作るよう命じています。

9月23日、唐(周)から留学僧の智宗・義徳・浄願が新羅経由で帰国し、筑紫国上妻郡出身の兵士・大伴部博麻(おおともべの・はかま)を連れ帰りました。先述のように、彼は白村江の戦いで唐の捕虜になり、奴隷に落ちぶれていましたが、入唐した倭人に発見されたのです。10月22日、彼の忠節と労苦を讃えて冠位と絹布・稲・水田を賜い、課税を三代まで免除しました。

藤原宮と新益京

10月29日、高市皇子は藤原の宮地を視察し、天皇も12月19日に視察しています。飛鳥浄御原宮から遷るため新たな宮を造営するわけですが、持統は頻繁に吉野宮へも行幸しています。これは天武の思い出を懐かしみ、その権威を借りるためともいいます。

11月11日、これまで用いていた劉宋・百済の元嘉暦に代わり、唐の儀鳳暦(麟徳暦)を採用するため併用を始めました。自前の暦を作成するだけの天文知識はなく、日本で暦が独自に作られるのは1000年近く後、1685年の貞享暦からで、1873年にはグレゴリオ暦に改めました。

持統5年(692年)10月、使者を遣わして新益京(藤原宮を中心とする首都)の地鎮祭を行わせました。持統6年(693年)正月、新益京の大路を視察しました。しかし月末には葛城の高宮へ、3月には伊勢へ行幸するなどフラフラしており、三輪高市麻呂に諫言されています。吉野宮通いも繰り返され、ようやく藤原宮に遷都したのは持統8年(695年)12月になってからです。

考古学的調査によれば、藤原宮は1km四方の広さを持ち、高さ5mの塀で囲まれ、東西南北に各々3つの門がありました。宮には南北600m、東西240mの朝堂があり、大極殿などの建築物の柱には礎石があり、瓦屋根を持っていました。宮の構造は『周礼』にかなっており、唐・周の天子の皇宮を模倣したに違いありません。

この藤原宮を中心として「新益京」、後世の学術用語で「藤原京」と呼ばれる広大な都市空間が建設されました。その規模は畝傍山・天香久山・耳成山の大和三山を取り込んでおり、東西10里(5.3km)、南北9里(4.8km)にも及ぶことが判明しています。これは平城京や平安京を面積的に凌ぎ、南側は旧来の倭京(飛鳥の首都圏)を取り込んでいました。つまりは倭京を拡大して再整備したものであり、彼女の時代は「藤原時代」ではなく「飛鳥時代(白鳳時代)」に含まれています。

また唐の長安をモデルとして条坊制を採用し、碁盤の目のように街路を配しており、藤原宮の南に朱雀大路を伸ばし、東側を左京、西側を右京としています(天子南面して左右は東西)。4坊(街区)ごとに坊令(担当官)が置かれ、48坊に12人の坊令が配置されました。宮の北には『周礼』のとおりに市が置かれています。築造にあたり邪魔な古墳は多くが破壊され、遺骨は遷されました。宮には土塀があったものの、京の周囲には唐の都城のような城壁や門がなく、無防備でした。見栄を張ってとりあえずそれらしいものを造ってみたというところでしょう。その後も吉野宮参りはやめていません。

持統譲位

持統10年(696年)7月、太政大臣の高市皇子が薨去しました。天武の皇子らのうち河嶋は既に薨去しており、残るは吉野の盟約に参加した忍壁と芝基、それに長、舎人、新田部、弓削などです。このうち舎人はまだ20歳ほどで、最年長者は忍壁となりますが、持統は自らの孫で草壁の子である珂瑠を皇位につけたがっていました。持統紀には忍壁の事績は記されず、芝基も「撰善言司」という訓話集の編纂委員に選ばれた程度です。右大臣の多治比嶋は宣化天皇の玄孫ですが遠縁に過ぎ、既に老齢でした。

持統11年(697年)2月、53歳の持統天皇は15歳の珂瑠を皇太子に立て、8月1日には皇位を譲り、史上初めて「太上天皇(上皇)」となりました。乙巳の変で皇極天皇が退位して弟の孝徳天皇が立った際は天皇の称号がなく、皇祖母尊という称号でしたが、今回は公的に太上天皇です。

751年に編纂された漢詩集『懐風藻』によると、高市皇子の薨去後に皇位継承者を定める会議が開かれ、群臣が論議して決着がつきませんでした。この時、大友皇子の子で淡海三船の祖父にあたる葛野王が「古来、皇位は子や孫が継いで来た。兄弟に皇位を譲ると乱が起きる」と発言します。天武の皇子である弓削は何か発言しようとしますが、葛野王が叱りつけて黙らせます。持統は大いに喜び、孫の珂瑠皇子を皇太子に立てたといいます。持統紀には東宮に関する官職の任命記事はあるものの、立太子の記事は日本書紀の続編である『続日本紀』にしかなく、公的に立太子されたか定かでありません。

自らの叔父かつ夫である天武と、自らの兄弟で天武の甥である大友皇子が、互いに戦い殺し合った「壬申の乱」の当事者たる持統天皇にとって、自らの血を引く可愛い孫が無事に皇位を継承できるか否かは大問題でした。葛野王の発言とは裏腹に、皇位は有力皇族や皇后となった皇女が継ぐことが多く、父から子へという例はあっても、まだ幼い皇孫が即位することには反発が大きかったのです。しかも父の草壁は天武の崩御後に即位できず薨去しており天皇ですらありません。そこで持統は自ら譲位することで正統性を与え、少年だからという理由で後見人の座についたわけです。忍壁らが反論しても、「お前は吉野の盟約に背くのか!」と一喝すれば済みます。

よく言われることですが、これは「天孫降臨」の神話のもとと思われます。神話において、天照大神は弟・素戔嗚命との誓約で儲けた天忍穂耳尊を葦原中国の支配者として天降らせようとしますが、彼は「下界は物騒だから嫌です」と断り、幼い息子の瓊瓊杵尊を天降らせるよう願います。天照大神と高木神(高皇産霊尊、瓊瓊杵尊の母方の祖父)は了解し、天照大神は瓊瓊杵尊へ「天壌無窮の神勅」を与え、多くの供回りの神々を添えて、高天原から日向(宮崎県)の高千穂へ天降らせるのです。

皇祖神である天照大神は太陽神ですが、『隋書』では日が倭王の弟とされており、男性として扱われています。それが女神になったのは、持統天皇などの女帝を投影したものでしょう。持統天皇の和風諡号は初め「大倭根子天之廣野日女尊」でしたが、『日本書紀』では「高天原廣野姫天皇」とされています(鸕野の「野」を拡張荘厳した諡でしょう)。天忍穂耳尊は草壁皇子、天孫瓊瓊杵尊は珂瑠皇子にあたるわけです。とすると高木神は珂瑠皇子の母方の祖父、天智天皇でしょうか。

なぜ直接ヤマトへ降臨せず、日向という辺境に降臨したのか、また天孫が直接即位せず、その子孫が即位したのかは後で考察します。持統が伊勢神宮を特別視していた様子はありませんが、国史に描かれる建国神話は国史編纂当時の政治的背景を投影していて当然です。

こうして珂瑠皇子は天皇に即位します。これが文武天皇です。日本書紀は持統天皇の譲位で終わるため、続きは『続日本紀』を読むしかありません。

幸いwikisourceに原文版がありました。

文武天皇

続日本紀の文武紀は三巻に分かれますが、かいつまんで行きましょう。

文武天皇は天武天皇と持統天皇の孫で、草壁皇子と阿閉皇女(持統の異母妹)の子です。持統天皇と阿閉皇女は天智天皇の娘で、母は共に蘇我氏(馬子の孫である倉山田石川麻呂の娘)ですから、文武天皇には天武・天智・蘇我馬子の血が流れています。だいぶ近親婚を重ねていますね。

皇后や妃は立てませんでしたが、夫人として藤原宮子(ふじわらの・みやこ)を立て、嬪(ひん、側室)として石川刀子娘(いしかわの・とすのいらつめ)と紀竈門娘(きの・かまどのいらつめ)を立てました。石川氏は壬申の乱の後に蘇我氏の宗家となった蘇我安麻呂が天武天皇から賜った氏姓ですが、刀子娘の父が誰かは伝わりません(刀子は彼女の名です)。紀竈門娘は紀氏の娘で、紀氏は蘇我氏と同じく武内宿禰を祖とする名門ですが、やはり彼女の父の名は伝わりません。それなりの有力者ではあるでしょう。

そして藤原宮子の父は、中臣(藤原)鎌足の子・藤原不比等です。藤原氏の礎を築いた重要人物であり、『日本書紀』編纂にも関わっています。

藤原不比等

「不比等(ふひと)」とは「史(文人、ふみ・ひと)」の意で、文書を司る役人が原義ですが、ここでは個人名です。父の鎌足は車持与志古娘(くらもちの・よしこのいらつめ)を娶って真人(まひと)、不比等の2男と、氷上娘、五百重(いおえ)娘、耳面刀自、斗売娘の4女を儲けました。ただ五百重娘の母は不比等らとは異なっています。

『興福寺縁起』では鎌足の正妻を鏡王女(鏡姫王)とします。彼女は宣化天皇の後裔にあたり、天智天皇の妃でしたが、のち離縁して鎌足の妻となり、不比等を儲けました。そして天智8年(669年)、夫の病気平癒を祈って山階寺(興福寺)を建立したというのです。このため「不比等は天智天皇のご落胤である」との説もありますが、『日本書紀』にはそうした記述がありません。箔付けのためそうした伝説が作られたのでしょう。車持氏は東国の上毛野氏の分家筋で、さほど有力な氏族ではありません。『公卿補任』等にも母の車持夫人が天智天皇の女御であった云々という話があります。

鎌足の長男・真人は出家して定慧と号し、653年に入唐して玄奘の弟子に学び、665年に帰国しましたが、同年に夭折しています。669年に鎌足が薨去した時、不比等はまだ11歳でしかなく(659年生まれ)、鎌足の甥の中臣意美麻呂が斗売娘を娶って中継ぎの家門後継者となりました。

氷上娘は天武の夫人となって但馬皇女を産み、天武11年(682年)に薨去しています。五百重娘も天武の夫人で新田部親王を産みましたが、のち異母兄不比等の妻となり、695年に麻呂を産んでいます。耳面刀自は大友皇子の夫人となって壹志姫王を産みましたが、その後は不明です。

鎌足の従兄弟・中臣金(かね)は天智朝で右大臣に登り、大友皇子に仕えて近江朝を支えたため、壬申の乱で近江朝が滅んだ時に処刑されています。しかし中臣氏は金の甥・大嶋が氏上(氏族の長)となって継続し、天武10年(681年)には帝紀等編纂を命じられました。持統即位の時に神祇伯として寿詞を読んだのも彼でしたが、持統7年(693年)に薨去しています。

不比等の最初の妻は、『尊卑分脈』『公卿補任』等によれば蘇我娼子(そがの・まさこ)です。彼女は蘇我安麻呂の妹で、天武9年(680年)に武智麻呂を、天武10年(681年)に房前(ふささき)を、持統8年(694年)に宇合(うまかい)を産んでいます。ただ宇合は兄たちと10歳以上年齢が離れており、母が高齢出産になるため別腹かも知れません。娼子は宇合が幼い頃に亡くなったと伝えられます。

文武天皇の夫人・宮子の母は賀茂比売といい、三輪系の鴨氏(賀茂朝臣)の出身です。賀茂比売の父は鴨蝦夷(かもの・えみし)で、壬申の乱の時に倭(ヤマト)を守って功績を立て、持統9年(695年)に薨去しました。宮子が産まれたのは683年頃と推測されています。

持統2年(688年)、不比等は31歳で判事に任じられ、位階は直広肆(後の従五位下)でした。のち直広弐(従四位下)に上がり、文武元年(697年)に宮子(15歳頃)を入内させた時は39歳です。それなりのキャリアと年齢ですが、宮子がいきなり「夫人」になったとは考えにくく、他と同じく嬪ではなかったかと考えられています。

また宮子入内には、不比等の後妻である県犬養三千代(あがたいぬかいの・みちよ)の助力があったといいます。

県犬養氏は八色の姓では三番目の宿禰であり、中堅氏族に過ぎません。彼女は敏達天皇の後裔である栗隈王の子・美努(みぬ)王に嫁ぎ、天武13年(684年)に葛城王を、ついで佐為王と牟漏女王を産みました。後の状況から、宮中では草壁皇子の妃・阿閉皇女に仕えており、彼女が産んだ珂瑠皇子(文武天皇)の乳母であったと考えられています。

美努王は河嶋皇子・中臣大嶋らと共に天武10年(681年)の帝紀等編纂にも関わった人物ですが、持統8年(694年)に筑紫大宰として都を離れており、この頃に三千代は彼と離別して不比等の後妻となったようです。不比等の先妻・蘇我娼子はこの頃亡くなっていました。時に不比等35歳、三千代は推定30歳で、彼女の人脈で宮子が文武に嫁いだと考えられます。

詔曰、藤原朝臣所賜之姓、宜令其子不比等承之。但意美麻呂等者、縁供神事。宜復舊姓焉。

文武2年(698年)、藤原朝臣の姓を鎌足の子・不比等とその子孫にのみ受け継がせるよう詔勅が発せられ、藤原氏を名乗っていた意美麻呂らは中臣氏に戻りました。藤原宮に入った藤原宮子をきっかけに、藤原氏は天皇の外戚として長く日本の国政を差配することになっていくのです。

◆竹◆

◆林◆

【続く】

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