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【つの版】ウマと人類史EX48:承久之乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 承久3年(1221年)5月、後鳥羽院は全国の武家に宣旨を発し、北条義時の追討を命じます。義時・政子ら率いる鎌倉政権は、後鳥羽院率いる官軍に対して戦う道を選択します。「承久の乱」の始まりです。

◆鎌◆

◆倉◆


泰時出陣

 後鳥羽院からすれば、日本国の統治権は天皇を頂点とする朝廷、あるいはそれを「輔佐」する太上天皇(上皇/院)たる自分が持つべきものです。北条氏は頼朝の姻族とはいえ伊豆の田舎者で、頼朝没後に凄惨な内ゲバに勝ち残って権力を握ったに過ぎず、多くの御家人から恨みを買っていました。源氏将軍家が断絶して御家人たちが動揺している今こそ、義時討伐の宣旨を発して後鳥羽院が天下の権力を取り戻す絶好の機会には違いありません。

 鎌倉では義時と嫡男の泰時、義時の弟の時房、政所筆頭の大江広元、有力御家人の三浦義村、安達景盛らによる軍議が行われます。この時「箱根と足柄の関を封鎖して敵を迎え撃つべし」という慎重論が示されますが、広元は「相手は官軍であるから、防戦する間にこちらの団結が崩れれば終わりだ。今すぐ京都を目指して出撃すべし」と積極論を唱えます。政子もこれに賛同し、泰時が総大将となって出陣することになりました。義時は朝敵認定されていますから表には出ず、政子らとともに鎌倉を守ります。

承久の乱

 泰時はこの時39歳の壮年で、従五位下・駿河守の官位にありました。彼は叔父の時房を副将として東海道を進みます。泰時の異母弟である朝時は越後に派遣されて北陸道を進み、甲斐源氏武田家の当主・武田信光は甲斐から信濃・美濃と東山道を進みました。行く先々では恩賞を約束された御家人が加わり、『吾妻鏡』によれば19万騎に膨れ上がったといいますが、1/10としても1万9000騎で、当時としては相当の大軍です。5月22日に鎌倉を出発した泰時らは、6月3日までには遠江国府(現静岡県磐田市)に達しました。

京軍敗走

 後鳥羽院は、東国の武家たちが宣旨に従って義時から離反するどころか、大軍となってこちらに攻めてくると聞いて驚愕します。やむなく後鳥羽院は官軍総大将に藤原秀康を任命し、迎撃させるべく東へ差し向けました。彼は平将門を討った藤原秀郷の末裔といい、畿内近国の武家として院に仕え、各地の受領を歴任して裕福でしたが、これ以前の戦歴は定かでありません。

 6月3日に京都を出発した秀康らは、美濃国と尾張国の境の尾張川(木曽川)を防衛ラインとして陣を構えます。近江・美濃・尾張の武家はおおむね京方についていましたが、兵力は鎌倉方の1/10程度ともいい、しかも各地に分散させたため初めから劣勢でした。泰時・時房・義村らは6月5日には尾張国一宮に達し、東山道を進んできた武田信光らは同日に美濃国大井戸渡(岐阜県美濃加茂市河合町)で大内惟信率いる敵軍を撃破します。泰時らは翌6日に渡河して墨俣の敵陣を攻撃し、勢いに乗じて散々に打ち破り、京方は恐れをなして敗走します。北陸道軍の朝時も順調に勝ち進み、京都は敗報を聞いてパニック状態となりました。

 後鳥羽院は自ら武装して比叡山に向かい協力を求めますが拒まれ、かつての義仲と同じく、瀬田川・宇治川を最終防衛ラインとしての京都防衛を余儀なくされます。6月13日に鎌倉軍が攻め寄せ、京方は橋を落として必死で防戦しますが、翌日には突破されます。鎌倉軍は京都へなだれ込んで放火・掠奪を行い、恐れおののいた後鳥羽院は15日に義時討伐の院宣を取り消し、藤原秀康・三浦胤義を追討せよとの院宣を出す始末でした。見捨てられた胤義は東寺に立て籠もって抗戦したのち自害し、秀康は大和・河内へ潜伏したものの、10月に見つかって逮捕・処刑されます。ここに後鳥羽院の倒幕計画は1ヶ月ほどであっけなく潰え、承久の乱は終わりを告げたのです。

上皇配流

 7月、京都に入った泰時・時房らは戦後処理を行いますが、鎌倉幕府には朝廷や院を処断する権限はないため、天子の勅命に従って、というのがスジとなります。時の天子は順徳院の子で、承久3年4月に譲位された懐成親王ですが、わずか4歳でしかなく、実権は祖父の後鳥羽院が握っていました。そこで彼は即位礼を行う前に廃位され(九条廃帝/追贈して仲恭天皇)後鳥羽院の同母兄・守貞親王(持明院宮・行助入道親王)の子で10歳の茂仁とよひと親王が擁立されます(後堀河天皇)。

 守貞親王は天皇に即位した経験もないまま太上天皇(法皇)とされ(後高倉院)、治天の君として幼い天子を「後見」することとなります(2年後に薨去)。当然実権はなく、西園寺公経が幕府/北条氏の意向を受けて内大臣となり、朝廷を主導しました。こうして合法的な戦後処理体制が整います。

 合戦の張本人とされた一条信能ら公卿は鎌倉に送られる途中で処刑され、坊門信忠ら院近臣も流罪や謹慎処分とされます。乱に加わった在京・近国の御家人も多くが処刑・処分されました(大江親広らは行方不明)。首謀者の後鳥羽院は、保元の乱で敗れた崇徳院以来65年ぶりに配流とされ、隠岐島に送られました。計画に加担した順徳院は佐渡へ、計画に反対していた土御門院は自ら望んで土佐へ配流され、後鳥羽院の皇子の雅成親王(六条院)は但馬へ、頼仁親王(冷泉宮)は備前へ流されます。後鳥羽院の血筋を皇位継承からなるべく排除し、反北条氏の芽を摘んだわけです。

 後鳥羽院が掌握していた莫大な荘園は没収され後高倉院が相続し、その管理も幕府が握ります。後鳥羽院に味方した公家や武家の所領も没収されて東国御家人や北条氏に分配され、守護・地頭・代官が置かれます。これこそ北条氏側についた御家人たちが求めていた権益でした。

 さらに幕府は、朝廷や西国御家人の動きを常に監視・制御するため、平家が拠点とした六波羅に泰時・時房を駐留させます。いわゆる「六波羅探題」の起源です(探題の号は鎌倉末期から)。そして在京・近国・西国の御家人の動員権は院や朝廷から剥奪され、六波羅に集中されました。ここに鎌倉幕府は名実ともに日本全国の軍事・警察権を独占したのです。朝廷や院も所領の支配権を引っ剥がされてほぼ幕府の制御下に置かれ、幕府を牛耳る義時は事実上の日本国の最高権力者となりました。

 しかし、義時に残された寿命は長くありませんでした。翌貞応元年(1222年)には陸奥守と右京権大夫を辞職して無官となり、元仁元年(1224年)6月に62歳で死去しました。死因は脚気や暑気あたりとされますが、妻の伊賀氏に毒殺されたという噂もあり、直後に義時の後継者を巡って伊賀氏の子・政村と泰時の間で争いが起きています(伊賀氏事件)。父の訃報を受けて京都から駆け戻った泰時は、政子・広元と協力してこの動きを鎮圧し、義時の後継者として次の時代を担っていくことになります。

◆Man With◆

◆A Mission◆

【続く】

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