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【つの版】ウマと人類史:中世編24・哈罕皇帝

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 西暦1227年8月、モンゴル帝国の建国者チンギス・カンは崩御しました。彼の跡を継いだのは、妃ボルテとの間に生まれた三男オゴデイです。

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哈罕皇帝

 オゴデイ(Ögödei)は、当時のモンゴル語で発音するならば、「ウゲデイ(Ögedei)」となります。漢字では窩闊台オゴタイとなりますが、史料によりウクデイ、ウグタイ、ウカダイなどの表記揺れもあります。面倒なのでここではオゴデイで統一します。

 彼には長兄ジョチ、次兄チャガタイがおり、末子相続の権利を持つトゥルイもいましたが、前回述べたような理由で帝位を継承することになります。しかし、すんなりと決まったわけではありません。トゥルイはチンギスの末子であるだけでなく知勇兼備の名将で、彼こそ帝位にふさわしいという意見も多かったのです。彼は次の君主カンが決まるまで「監国(摂政)」の地位につき、父の家産と領国ウルス、軍隊のすべてを相続しました。

 1229年9月、トゥルイはチンギスの三年の喪が開けたとしてクリルタイを開催し、父の意向を尊重して帝位を兄オゴデイに譲りました。さらに自らの相続した家産・領国・軍隊の大部分を譲渡し、モンゴル本土がオゴデイの支配下に入るようにします。オゴデイは1186年生まれで当時43歳、トゥルイは1192年生まれで当時37歳ですから、オゴデイが崩御すれば次はトゥルイが後を継ぐ可能性は高かったでしょう。

 オゴデイは「弟から帝位を譲られた」という負い目を払拭するため、自ら「カアン(Qa'an/qaghan,哈罕)」と名乗りました。これはチンギスの頃までに「カン(qan/khan)」とつづまっていた君主号を、古のカガン/可汗に戻し、他の「カン」より上位にあると主張したものです。チンギスがカンで済ませていたのに対し、オゴデイがわざわざこう名乗ったことこそ、彼の地位の弱さを物語ります。帝国内ではトゥルイに加え、中央アジアの旧西遼領を統治する兄チャガタイがオゴデイを支援し、1225年に早世したジョチの子らは中央政治からやや遠ざけられることになります。

金朝滅亡

 オゴデイ・カアンは、チンギスの路線を受け継いで帝国をさらに拡大させるべく、遠征を再開します。西夏はチンギス崩御の3日後に降伏し、最後の皇帝も殺されて滅亡していましたから、次なる標的はです。1230年、オゴデイは自ら中軍を率いて南下し、山西・河北を進んで黄河を挟み金軍と対峙しました。左翼/東軍はチンギスの末弟テムゲ・オッチギンが率い、中都(北京)から南下して黄河へ迫ります。また右翼/西軍はトゥルイが率い、旧西夏領から陝西盆地へ向かいました。モンゴル本土はチャガタイが預かり、後方から兵站を担います。金国は危急存亡の秋を迎えました。

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 これに対し、金は名将・完顔陳和尚が精鋭を率いて迎撃します。彼は以前モンゴル軍にいて戦略を熟知しており、騎兵を運用してモンゴル軍に何度も打ち勝った英雄でした。トゥルイは陝西盆地の西側の大散関と鳳州(宝鶏市)を落とすと、南宋に道を借りようと使者を派遣しますが拒絶されます。そこで秦嶺山脈を越えて南宋の洋州(漢中)を攻め取り、漢水沿いに進んで金州(安康)を抜き、南陽盆地に出て南西から金の都汴州/開封へ迫ります。陳和尚は三峰山(河南省許昌市禹州)へと急行してこれを迎え撃ちました。騎兵2万、歩兵13万もの金軍に対し、トゥルイ率いるモンゴル軍は4万足らずでしたが疲弊した金軍を散々に撃ち破り、陳和尚を捕虜とします。陳和尚は金への忠義を全うして処刑され、金の命運は風前の灯となりました。

 しかし、この勝利のあとまもなくして、トゥルイはモンゴル高原への帰還途上で病死してしまいます。オゴデイにとっては敵の名将と潜在的な政敵がまとめていなくなったわけですが、モンゴルでは「もしや暗殺では」と噂が流れます。アルコールの飲みすぎとも言われますが、『元朝秘史』『集史』『元史』などではいずれも「病に罹ったオゴデイの身代わりとなり、まじないのかかった酒を飲み干して死んだ」とします。この頃モンゴル軍中に疫病が流行していたようですから、それにやられたとも考えられますが。

 1232年、モンゴル軍は再び金を攻撃し、開封を包囲します。金軍は火薬を用いたロケット兵器「火槍」を放つなどして激しく抵抗し、和議を申し出ますが拒絶され、南宋もモンゴルと結んで金に攻め込みます。追い詰められた金の皇帝ニンキャス(哀宗)は1233年に開封を脱出し、河南各地を逃げ惑った末、蔡州(駐馬店市)で包囲されます。1234年2月9日、ニンキャスは族弟ホトンに帝位を禅譲し、絶望のあまり首をくくって死にました。同日ホトンは城を脱出しますが捕縛・処刑され、金朝は建国以来119年で滅亡します。同時期にはマンチュリアの東遼国大真国も滅ぼされました。

高麗侵攻

 またこの頃、モンゴル軍は高麗にも侵攻していました。1225年にモンゴルの使者を殺害したことの報復です。総大将サリクタイは1231年に鴨緑江沿いの城を攻撃し、現地の降伏者・洪福源らを伴って首都・開城へ進撃します。高麗朝廷は多数の金品を貢納して和議を申し込み、サリクタイは72人のダルガチ(代官、監督)を各都市に置いて1232年春に北へ引き上げました。

 ところがサリクタイが撤退すると、高麗朝廷を牛耳る武臣(将軍)の崔瑀はダルガチを皆殺しにし、都を開城から南の江華島に遷します。モンゴル軍は怒って高麗全土を蹂躙しますが、海に囲まれた江華島は難攻不落で、陸戦に長けたモンゴル軍をよく防ぎました。サリクタイはソウル近郊の戦闘で流れ矢を受けて戦死し、モンゴル軍は撤退を余儀なくされます。その後も戦闘は続きますが、江華島は1259年に降伏するまで陥落しませんでした。

哈拉和林

 1235年、モンゴル高原に帰還していたオゴデイ・カアンは、オルホン河畔に新たな首都カラコルムを建設しました。カラは黒、コルムは石や砂礫をいう語で、安山岩や玄武岩など黒い岩石が転がっていることからの地名です。ハンガイ山脈の麓に広がるオルホン渓谷は、古来遊牧帝国の拠点が置かれた地であり、匈奴、突厥、ウイグルもこの地に都を構えました。匈奴時代には龍城が築かれ、ウイグルのブグ・カガンはオルド・バリクを建設し、商人や職人、捕虜などを住まわせていたといいます。この頃にはオルド・バリクは廃墟と化していましたが、チンギス・カンは西方遠征に際してこの付近に兵站基地を設営させ、オゴデイがこれを拡大して都としたのです。

 定住しない遊牧民であればこそ、交易を行う場として都市は必要ですし、モンゴル軍は現地調達や家畜だけで大遠征の兵糧や軍需物資を賄っていたわけではなく、各地に兵站基地を置いてキチッと兵站を整えていました。チンギスが大オルドを置いたブルカン山南麓にはアウラガ遺跡があり、鉄製の鏃や武器が製作されて各地へ輸出されていた痕跡がありますし、ゴビアルタイ県のシャルガには1212年にチンカイ城が建設され、西方遠征の拠点のひとつとして機能しました。ブルカン山麓はモンゴル高原全体から見れば東に寄っており、カラコルムはほぼ高原の中央部に位置しています。
 チンカイ城とカラコルムは直線距離にして585km、カラコルムとアウラガ遺跡は500kmほど離れており、これはモンゴル軍の一ヶ月の行軍距離に相当します(1日平均16-20km)。チンカイ城から600km圏内にはトルファンやウルムチ、イルティシュ川源流部があり、トルファンからは600km刻みでタルバガタイ(塔城)、アルマトゥイ、シムケント、アム川沿いのテルメズと繋がります。計算上はアウラガ遺跡からテルメズまで7ヶ月余りで到達でき、軽装の騎兵ならもっと早く着きます。アウラガ遺跡から600km圏内は、北はバイカル湖、東はフルン湖、南東はシリンゴール、南は陰山山脈で、それぞれシベリア、マンチュリア、遼寧、黄土高原が射程圏内に入ります。

 このカラコルムでクリルタイを開催したオゴデイは、さらなる世界征服戦争を宣言します。南東は南宋と高麗、西方はキプチャク草原の征服が計画され、南宋遠征にはオゴデイの三男クチュと次男コデンが派遣されます。また西方遠征軍はジョチの子バトゥを総大将とし、功臣スブタイ、オゴデイの長男グユク、トゥルイの子モンケらモンゴル帝国の王侯貴族を綺羅星の如く揃えました。川や海が阻み水軍が厄介な南宋・高麗より、騎馬兵力が活用できるこちらに力が注がれたのでしょう。まず南宋遠征から見ていきます。

南宋遠征

 1234年に金国が滅ぼされた後、モンゴルは南宋と平和条約を結んで北方へ引き上げていましたが、南宋はこれを破って勝手に河南へ侵攻し、開封や洛陽などを接収しました。怒ったモンゴル軍は反撃を行い、南宋軍を撃退していたのです。南宋遠征はこれを懲罰するための戦いでした。

 南宋遠征の総大将クチュは、父オゴデイから後継者に指名されたプリンスでした。彼は中軍を率いて山西方面へ南下し、兄コデンは右翼/西軍を率いて西夏の旧領から陝西・四川方面へ向かい、チンギスの弟カチウンの子アルチダイらは左翼/東軍を率いて山東方面へ進出しました。モンゴル・契丹・女真・西夏・漢人らの混成軍はかなりの大軍で、河南・江蘇の領土をたちまち奪い返しますが、1236年2月にクチュが急死してしまいます。彼の息子シレムンはまだ若く、皇族のクウン・ブカとタングート人のチャガンが指揮をとって遠征を続けました。

 しかし南宋の名将・孟珙は迫りくるモンゴル軍を撃ち破り、巧みな防衛戦を展開して一歩も譲らず、効率的な防衛網を築き上げて南宋の命脈を数十年伸ばしました。モンゴル軍は南陽盆地あたりまで迫りますが和平を結んでの撤退を余儀なくされ、淮河・秦嶺が両国の国境線となります。高麗方面への遠征も、半島本土は慶尚道・全羅道まで蹂躙できたものの江華島を落とせずに終わります。これに対し、モンゴル軍は西方では大成功をおさめ、キプチャク草原を越えてヨーロッパにまで侵攻することになりました。

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【続く】

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