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【つの版】ウマと人類史EX11:火山草原

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 古墳時代、4世紀後半に朝鮮半島から日本列島(倭国・倭地)へ輸入されたウマは急速に根付き、各地に牧が設けられ、6世紀には逆に朝鮮半島側へウマを輸出するようになりました。倭国は急激に軍事大国となり、高句麗には敵わぬまでも百済や新羅を抑えつけるほどにはなりましたが、それは一体なぜだったのでしょうか。この本を参考に振り返ってみましょう。

 妄想が先走ったところもあるものの、日本列島で多くのウマが飼育されるようになったことについて結構納得のいく理由があったことがわかります。古墳時代から1000年以上に及ぶ、ウマと倭国/日本の関係に迫りましょう。

◆縄◆

◆文◆

朝鮮少馬

 倭地にウマが輸入されたのは、百済や弁辰(任那・加羅)が高句麗・新羅に圧迫され、援軍を必要としたためとする説が有力です。日本書紀でも応神天皇の時に百済から良馬が贈られたとあります。高句麗は現吉林省の山岳地帯に勃興して隣国の名馬産地である夫余を征服し、遼寧省や北朝鮮をも制圧した大国で、充実した騎馬戦力を有していました。対する百済は韓国の西半分程度の国土しかなく、軍事力でも圧倒的な差があります。高句麗に匹敵する面積と人口と歴史を持つ倭国が味方につけば心強いでしょう。

 しかし倭地(西日本と東日本)は山がちとはいえ温暖湿潤で、モンゴル高原などとは気候が異なり、中央ユーラシア原産のウマの飼育に向いているとはあまり思えません。どれぐらいのウマが飼育できたのでしょうか。

 統計調査によれば、令和2年(2020年)度の日本におけるウマの飼養頭数は7万7762頭で、うち競走馬などの軽種馬が4.5万、重種馬が5000弱、在来馬が1683頭などとなっています。しかし明治8年(1875年)に政府が国内のウマの飼養頭数を調査したところ100万頭を超えており、明治14年(1881年)には165万頭を超え、昭和前期に100万頭ほどまで減少したものの、昭和30年(1955年)頃まで100万頭を下回ることはありませんでした。戦後のモータリゼーションでウマが運送・乗用などの役目を終え、急激に減少していったことがわかります。明治8年の日本の人口は3400万人ですから、単純計算で34人につき1頭のウマがいたことになりますね。

 対する朝鮮半島はというと、朝鮮総督府殖産局『朝鮮の農業』によれば、日本による韓国併合時の明治43年(1910年)時点で3.9万頭しかいませんでした。同年の朝鮮の人口は1313万人ですから337人につき1頭です。同年の日本のウマの頭数は156万頭で、朝鮮半島の40倍ものウマがいます。日本は日清・日露戦争後ですから軍馬を急激に増やす必要があったとしても、朝鮮半島は日本よりもウマの数は遥かに少なかったのです。なぜでしょうか。

済州馬産

 朝鮮固有の馬種としては、半島の南に浮かぶ済州(チェジュ)島の「済州馬」がいます。日本統治時代にも「朝鮮のウマの過半数は済州島に産する」との記録があります。しかし体格は矮小で、荷運びには用いることができても軍馬には向きません。3世紀の高句麗のウマも小柄でした。

『三国志』東夷伝によると3世紀の馬韓(韓国西部)の西(西南)海上には大きな島があり、州胡と呼ばれる人々が住んでいました。彼らは背が低く、言語は韓と同じでなく、頭は剃っていて鮮卑に似ています。好んで牛や豚を飼養し、鞣し革を衣服にしますが上着しかなく、下半身は丸裸(ふんどしぐらいはしたでしょうが)で、船で韓へ往来して交易を行うといいます。ウマがいたとは書かれていませんが、牧畜は行っていたようです。のち済州島には耽羅という王国が形成され、5世紀後半から6世紀には百済や倭国に服属して貿易を行うようになります。ウマが持ち込まれたのもこの頃でしょう。

 済州島は面積1845km2で、淡路島(592.55km2)の約3倍、対馬(約700km2)の2.6倍もありますが、香川県(1876.77km2)よりやや小さい程度です。そこに朝鮮のウマの半分(3.9万を2で割って1.95万頭)がいたとなると、朝鮮本土のウマの密度はさらに薄くなります。半島北部はまだしも、南部はウマがいないにしても少なかったとしか考えられません。なぜでしょうか。そしてなぜ済州島にはウマが多かったのでしょうか。

火山草原

 朝鮮半島の面積は日本の本州とほぼ同じ22万km2で、グレートブリテン島よりやや大きいほどです。気候は日本列島と同じかやや寒いぐらいで、ウマが多くいてもおかしくありませんが、日本や済州島との地質学的に大きな違いは火山が少ないことです。済州島は全土が火山(漢拏山)ですし、日本列島にも多数の火山がありますが、朝鮮半島本土には北端部の白頭山を除けばほとんど火山が存在しません。ウマの産地であるモンゴル高原にも中央ユーラシアにも、アルプス以北のヨーロッパにも火山はさほどないため、ウマと火山は無関係なようですが、実は大いに関係があります。火山こそが済州島や日本列島に、ウマの牧地となる豊かな草原を作り出したのです。

 ウマは草原に適応して進化した生物であり、野生状態では草を主な食糧としています。草原とは樹木が乏しく草本が主となった植生の状態で、草の高さは問われません。規模の小さいのを草地と呼びますが厳密な区別はなく、水草の生い茂った場所も広義の草原とされます。何らかの条件で樹木が育ちにくく、森林が成立しない場所が草原となります(草さえ育ちにくい場所は植生の乏しい荒野、砂漠/沙漠となります)。

 その条件とは、降水量が少ないこと、気温が極端に低いこと、風が極端に強いこと、土壌が樹木の生育に向かないことなどです。いわゆる森林限界を超えた場所である極地(ツンドラ)や高山地帯、乾燥した内陸地域には草原が多く広がっていますが、温暖湿潤であっても海岸線付近や湿地・水辺・氾濫原、火山の周辺では森林が育ちにくく、草原化します。

 海辺は土壌が塩分を含み、海から塩分の混じった潮風が吹くため、松やマングローブなど塩気に強いものを除けば樹木の生育には向きません。湿地や水辺や氾濫原(河原)は土壌が水気を多く含み過ぎ、樹木は根を張ることができません。増水で地面が水に浸かればなおさらです。そして火山の周辺には水はけのよい火山灰土や礫(小石)や岩が多く、しばしば噴火してそれらを降り注がせ、根を張るのに必要な土壌が薄いため、樹木が発達しにくいのです。とはいえ日本のように温暖湿潤な気候では、草原にも次第に樹木が伸び、千年も経てば富士山麓の青木ヶ原樹海のように森林化するはずです。

人為焼野

 現代日本は森林が国土の7割を占め、草原は国土面積の5%ほどだそうですが、かつてはそうではありませんでした。戦後の植林とその後の林業の衰退により、日本の山は荒れ放題となり、異常に樹木が繁茂しているだけです。かつての日本の山は木材や薪炭の供給地として樹木が伐採されていたため、禿山が多かったといいます。また火山の周辺には現代でも草原が広がっているのを見ることができますが、定期的に「野焼き」をして草原を焼き払い、樹木の成長を人工的に抑えています。こうした人為的な調整によって、温暖湿潤な日本で草原は長年維持されてきたのです。

 野焼きは、人類が火の利用を開始した頃から行われて来ました。アフリカのサバンナで誕生したともいう人類は原野や森林に火を放って樹木や毒蛇・害虫・猛獣を駆逐し、生存適地を拡げました。見晴らしが良くなったことで敵に襲われる確率も上がりますが、敵や獲物を先に発見することもできますし、火で焼かれた植物や動物を簡単に拾い集めて食糧にでき、焼け野原には炭化した有機物が積もって肥料となり、やがて植物が一斉に芽吹いて花や実をつけ、多くの食糧を供給してくれるのです。これを焼畑農業といい、日本では縄文時代から行われていたことが考古学的調査から判明しています。縄文人は狩猟採集社会と言われますが、森林資源を利用するばかりでなく、粗放ながらソバ、麦、豆などを栽培する農業もしていました。

 火山灰土と腐植(微生物に分解された植物)が混ざった土壌を「黒ボク土(くろぼくど)」と言います。黒くてボクボクした手触りの土であることからそう呼ばれ、戦後にGHQが土壌を調査した時には日本語の「暗土」からAndo soil,Andisolis,Andosolアンドソル)と表記されました。南九州のシラス台地や関東のローム層は火山灰土ばかりで白っぽいですが、日本の黒ボク土は自然に形成されたものではなく、1万年以上に及ぶ「野焼き」によって形成されたのではないか、ともいいます。火山灰土の上に生えた植物が腐蝕し堆積したり、山火事や噴火で焼き尽くされたりしたのかも知れませんが。

 アンドソルは日本ばかりではなく、地球上の氷のない陸地表面の1%ほどを覆っています。多くは環太平洋地域で、チリ中部、エクアドル、コロンビア、メキシコ、北米太平洋岸、日本、ジャワ島、ニュージーランドに見られます。また東アフリカの大地溝帯やイタリア半島、アイスランドやハワイ、大西洋のアゾレス諸島にもアンドソルがあります。いずれも火山地帯に存在し、ジャワ島では肥沃な農地となっています。15億年前のアンドソルの化石もあるそうですから、人類以前から存在はしたようです。

 日本の国土面積の31%、また畑の47%は、この黒ボク土によって占められています。北海道・東北・関東・九州に特に多く分布し、火山の少ない近畿地方・中四国地方などにはあまり分布していません。

 この土壌は柔らかくて有機物を多く含むものの、水はけが良いため水田農耕には向かず、リン酸分が不足しやすいため肥料を加えないと痩せた土地になってしまいます。また樹木が生えにくいため植生は草原となり、見晴らしが良くなります。なぜ縄文人が1万年も野焼きを行っていたかというと、焼畑農業でソバや麦や豆を栽培する他、森林に住む鹿や猪をここに追い込んで弓矢で狩猟するためだともいいます。ウマも森林があれば住み着きますが、やはり草原があったほうが良かったのでしょう。

 また日本は朝鮮半島よりも台風が直撃しやすく、山は崩壊して台地や野原を形成し、河川は氾濫して氾濫原に草地を形成します。こうした地理的な条件から、済州島や日本列島は朝鮮半島本土よりウマの飼養に向いていたのではないか……というのが、『「馬」が動かした日本史』の説くところです。つのは地理学とかにあまり詳しくないため、どこまで本当なのか判然としませんが、日本は意外とウマに適した土地だったようです。これでもまだ同書の序章の半分ほどですので、引き続き読み進めて行きましょう。

◆さば◆

◆んな◆

【続く】

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