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【つの版】度量衡比較・貨幣38

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて、日本にはチャイナから輸入した銅銭が流通していました。この時代の日本の貨幣経済を見ていきます。

◆Seeking◆

◆the Truth◆

鎌倉貨幣

 鎌倉時代には、西日本を中心に貨幣経済が浸透していました。南宋は1199年に銅銭の輸出を禁止しますが、民間での密貿易は止まらず、金や高麗を通しても宋銭が流れ込んで来ます。1230年には朝廷から米1石=銭1貫の估価法(価格制定法)が出されています。また銀1両(37.3g)は400文、金1両は銀10両(373g)=銭4貫とされます。

 当時の度量衡は各地で様々ですが、延久4年(1072年)に朝廷が荘園整理令の一環として「宣旨枡」という公定の升を定めており、現行の升(1.8リットル)の5割から6割と推定され、約1リットルにあたります。10合が1升、10升が1斗、10斗=100升が1石ですから、この頃に1石の米というと100リットル(重さは83.3kg)となります。

 すると米1斗(10リットル=8.33kg)は銭100文(373g)、米1升(1リットル=833g)は銭10文(37.3g)、米1合(100ml=83.3g)は銭1文(3.73g)に相当します。職人の1日の労賃が100文(米1斗)ですから、仮に1文100円とすれば1貫10万円となります。月20日働けば20万円(2貫)、12ヶ月で240万円(24貫)。ボーナスなどもあれば暮らしてはいけたでしょう。

銭1文=米1合=100円
銭10文=米1升(1リットル)=1000円
銭40文=銀1匁(3.73g)=4000円
銭100文=米1斗=1万円
銭400文=銀1両=金1匁=米4斗=4万円
銭1貫(1000文)=米1石=10万円
銭4貫(4000文)=金1両=銀10両=米4石=40万円

 寛喜2年(1230年)正月、伊勢の豪族の藤原実重が京都で布施を行い、飢饉の民130人に銭20文(2000円)、米1升(1000円)ずつ施しました。1人に3000円ずつとして約40万円、銭4貫ほどの施しです。

 建長5年(1253年)、鎌倉幕府は盗みの罪人に対する刑罰の基準を定め、「諸国郡郷庄園地頭代」に充てお触れを出しました。盗品の価値が300文(3万円)未満ならば一倍弁(盗品を返し、かつ同額の銭を支払う)、300-500文(5万円)未満ならば科料2貫(20万円)、500文以上なら一身の咎(懲役または配流、親類家族に咎は及ばない)で、再犯の場合は価値にかかわらず一身の咎とされます。では、この頃の他の物価はどうでしょうか。

准絹下落

 皇朝銭が使われなくなり、宋銭が入ってくるより前には、品物の価値を表す単位として「絹○疋」が使われました。疋は本来8丈(24m)の長さを持つ絹布のことで、1056年の書状では「米100石が絹100疋に准(あた)る」とされています。米1石=絹1疋です。しかし次第に絹の実物ではなく、帳簿上の仮想通貨として「准絹○疋」が使われるようになりました。1226年には鎌倉幕府が「准絹ではなく銅銭を貨幣に用いてよい」との命令を出しています。

 永仁6年(1298年)の宮中文書「蔵人所御即位用途注文」によれば、米75石が准絹8000疋となっており、おおよそ米1升=准絹1疋にあたります。米1石=絹1疋だった1056年からは1/100になっており、銭に換算すれば10文(1000円)でしかありません。また同文書では凡絹(一般的な絹布)1疋が准絹19疋(190文=19万円)、越後国の絹布1疋が准絹165疋、上品八丈絹1疋が准絹400疋(4000文=4貫=40万円)となっており、この頃には銭10文のことを「銭1疋」と呼んでいました。他の品物の単価はこうです。

柄杓1本:1疋=10文(1000円)
炭1斗:3疋=30文(3000円)
熟銅1両(37.3g):3.5疋=35文(3500円)
桶1つ:4疋=40文(4000円)
油1升:15疋=150文(1.5万円)
水銀1両:23.3疋=233文(2.33万円)
水樽1つ:25疋=250文(2.5万円)
釜1つ、銀1両:100疋=1000文=1貫(10万円)
砂金1両:300疋=3000文=3貫(30万円)

『太平記』によると、鎌倉幕府執権・北条時宗(在位:1268-1284年)から貞時(在位:1284-1301年)の頃、青砥藤綱という武士がおりました。彼がある夜に鎌倉の滑川を通った時、銭10文(1000円)を川に落としてしまい、従者に命じて松明を50文(5000円)で買わせ、落とした銭を探させました。ある人が「差し引き40文の損ではないか」と嘲笑したところ、藤綱は「銭10文は少ないが、これを川に落として失えば、天下の貨幣を永久に失うこととなる。松明代は自分にとって損ではあるが、銭はまわって他人を利益する。合わせて天下が60文を得することになるのだ」と答えたといいます。

永仁徳政

 その北条貞時は、永仁5年(1297年)に徳政令を発布し、御家人が所領を売買したり質入れしたりすることを禁止しています。これは御家人が所領を売却して没落していくのを食い止めるためのものでしたが、翌年に売買禁止令が撤廃されます。ただ売却・質流れした所領は元の領主が取り戻すこと、幕府が正式に許可した場合や買い主が御家人の場合で契約後20年が経過していれば返却の義務がないことが確認されました。しかし貨幣経済の進展や分割相続により御家人の貧困化が進み、幕府滅亡の一因となりました。

 土地の価格を見てみましょう。正和2年(1313年)、『徒然草』で知られる兼好は山科小野荘の土地1町を六条氏から90貫(900万円)で購入しました。1反(1/10町)あたり9貫(90万円)で、5人の小作人に2反ずつ貸せば毎年10石(10貫=100万円)の年貢米が入ります。年貢が収穫の1/10とすれば、1町が100石(1000万円)、1反が10石の生産力があるわけです。しかし彼は9年後に大徳寺へ30貫(300万円)の安値で売却(寄進)してしまいました。上等な田は1反で10-20貫もしますが、普通は4-5貫ほどです。

海商貿易

 この間、日本には1274年と81年の2度にわたってモンゴル軍が襲来し、南宋が1276年に滅亡するなど、東アジアは激動の時代でした。しかし朝廷や幕府は宋や金、モンゴル帝国(元朝)や高麗と正式な国交を結んでおらず、商人や僧侶は比較的自由に往来できたようです。鎌倉幕府は1264年に停止するまで直営の貿易船「御分唐船」を南宋と往来させていました。南宋からの亡命者も日本に渡来して商業に従事し、博多などの港町や寺院周辺に中華街(唐房)を築き、銭を盛んに用いていました。

 14世紀前半、鎌倉幕府は「寺社の造営・修復等の費用を調達するため」と称して、官民合弁の貿易船を何度かチャイナ南部(主に明州/寧波)へ派遣しています。現地でのトラブルもあったようですが、禅僧を伴ったこの貿易は文化交流ともなり、寺社や商人、幕府に大きな利益をもたらしました。

 1976年、韓国南西部の全羅南道新安郡沖で発見された「新安沈船」は、14世紀前半にチャイナと博多を往復した貿易船のひとつでした。積荷は陶磁器が最も多く、華南地方のものが主ですが華北や高麗のものもあり、南宋時代の骨董品もありました。また28トンもの銅銭が積載されており、1枚3.75gとして800万枚(8000貫=8億円)に相当します。宋銭が主ですが元朝の発行した銭もあり、最新のは1310年発行の至大通宝でした。宋・元では銅銭の密輸出を禁じていましたから、これは国家公認の銅銭輸出となります。

 他には香木、薬草・石臼・天秤・薬匙、金属製品や漆器、書画、銀錠などが積まれており、刀や鏡など日本製品も多くあり、木簡からは権利者の名前や積荷を記した文字が読み取れます。どれも貴重な歴史資料です。

 これらの貿易を担ったのは「海商」と呼ばれ、九州・高麗・耽羅・琉球などを股にかけて東シナ海を往来していました。唐代からこうした勢力は見られますが、14世紀も後半になると武装して掠奪を行う集団も頻繁に出現し、いわゆる「倭寇」となります。

◆海◆

◆王◆

【続く】

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