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【つの版】ウマと人類史EX07:馬車西来

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 欧州・中央ユーラシア・中東・インドと来て、今回は東アジアです。チャイナは古くから騎馬遊牧民の侵略を受けて来ましたが、ウマによって広い領域を征服・統治することも可能となりました。

◆馬◆

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馬車西来

 チャイナに飼育されたウマが考古学的に出現するのは、紀元前1200年頃、殷(商)王朝の後期からです。殷の都(大邑商)があった殷墟には複数の王墓があり、「車馬坑」という竪坑があって、二輪戦車(チャリオット)と2頭ないし4頭のウマ、およびその御者が陪葬(副葬)されています。車輪にはスポークがあり、明らかに中央ユーラシアからもたらされたものです。殷はこれを用いて戦争を行い、周辺の諸部族を支配しました。

 殷墟の西には太行山脈があり、モンゴル高原からせり出した牧畜適地の山西省があり、その北西にはオルドス地方や黄土高原があります。殷以前からオルドスには青銅器文化が栄え、モンゴル高原や西域と交易を行っていました。殷の青銅器文化や馬車文化はこのあたりからもたらされたのでしょう。

https://en.wiktionary.org/wiki/File:%E9%A6%AC-oracle.svg

 甲骨文字や金文(青銅器に鋳込まれた文字)が出現するのもこの時代で、すでに「馬」や「車」の象形文字が現れています。馬は明らかにウマを横から見た姿で、頭部には大きな目が特徴的に表現されています。中には頭部がまるまる「目」の形をしているものもあります。

 発音では、再建された上古音は「*mˤraʔ」と推測されています。チャイナ諸語はチベット・ビルマ諸語と祖先を同じくし、チベット語では古語でウマを「rmang」、ビルマ/ミャンマー語では「mrang」といいます。殷を滅ぼした周や秦はチベット系の羌族と繋がりが深いため、殷では別の発音で呼んでいたかも知れませんがわかりません。mとrの音を含むので、モンゴル語で去勢したウマをmoriと呼ぶのと関係がありそうです。タイ語ではma、日本語ではmma/umaですが、コリアではモンゴルの影響かmalとなります。ツングース諸語でもmurin/morinで、モンゴルの影響がうかがえます。

 なお英語で牝馬をmareといいます。これはゲルマン祖語marhaz、ケルト祖語markos、印欧祖語márkos([野生の]ウマ)に遡るようですが、mrangやmoriと関係があるのか定かではありません。

「車」は明らかに二輪馬車の象形で、荷台の左右に車輪があります。上古音は*[t.qʰ](r)Aないし*kʰljaで、トカラ祖語kuk(ä)le、印欧祖語kʷel-(回る)に遡ると思われ、英語wheelやcircleと同語源です。ウマも車も西方からチャイナに伝来したのですから、西方系の語源を持ちます。「乗(乘)」は人が木の上に登る姿、「戦(戰)」は盾と戈(矛)を持つ形で車とは関係ありませんが、戦車を群れ集めて包囲することを、戦車を駆け巡らせることを、旗を振って指図することをといいます。

 紀元前1000年頃に殷を滅ぼした周は陝西地方に拠点を持ち、羌(羊飼い)などの牧畜民と手を結んでいました。殷よりも北西との繋がりは深いのですから、ウマと二輪戦車は盛んに用いられ、それに乗る戦士が支配階層を形成します。また戦車には歩兵が随伴し、合わせて一部隊となりました。西周代には10人で1隊、20隊=200人で師、5師=100隊=1000人で1軍としていますが、春秋(東周)時代には歩兵の数が大幅に増えます。

 春秋時代の1台の戦車には、弓を射る卒長(部隊長)、その右にいて長柄の武器を振るう車右、ウマを操作して走らせる御者の3人が乗ります。戦車には2頭(上等なら4頭/駟)のウマが繋がれ、周囲を72人の歩兵が守り、兵糧などを運ぶ荷馬車や馬丁(ウマの世話係)、武具持ちや雑用の従者らが輜重として従いました。これを総称して「卒」といい、およそ100人です。不安定な戦車の上で武器を扱うのは相当の訓練が必要ですし、戦車を走らせるのも熟練の技術が必要ですから、そこらの庶民では扱えません。

 この頃、支配階層は王・侯・卿・大夫・士と大別されました。卒を率いるのは士で、600戸(1戸5人として3000人)ほどの封地から100人の兵を出します。大夫や卿はこれらを率いて旅・師・軍とし、王や諸侯の代わりに軍勢を率いて戦うのです。卿の率いる軍を百乗(戦車100台を含む軍隊、1万兵)といい、諸侯の出せる最大限となりますが、戦国時代以後には諸侯王は千乗(10万兵)、天子(周王/皇帝)は万乗(100万兵)と換算されます。それで天子を「万乗の君」というのです。とすれば千乗の国は60万戸/300万人、万乗の国は600万戸/3000万人で、漢代前期の推定人口に相当しますね。

軒轅造父

 戦国時代には、ウマや馬車が西方から伝来したことは忘れられ、上古の帝王である黄帝の時代には存在したとされます。彼の姓は周王と同じ姫、名は「軒轅」だったといいますが、軒とは屋根(のき)がついた車、轅は馬車の前に突き出してウマと繋ぐための「ながえ(長柄)」を指しますから、戦車によって殷を滅ぼした周王を理想化したものに過ぎません。また北斗七星は北極星に住まう天帝(泰一)が天を巡回するための車ともみなされ、その第一である天枢星を雷光が巡るのを母が見て妊娠したとも伝えられます。

 軒轅は長ずるや徳の衰えた炎帝神農氏を攻め滅ぼし、天命を受けて黄帝となりました。次いで反乱を起こした諸侯の蚩尤と戦いましたが、蚩尤は濃霧を起こして戦場を包み、方向感覚を失わせます。この時、黄帝の臣の風后が常に南を指差す「指南車」を発明し、蚩尤の術を破ったといいます。とすると車はすでにあったわけですが、ウマの起源はわかりません。黄帝に味方した応龍という龍神が天馬を生んだともいいます。また車を発明したのは夏の禹王に仕えた奚仲という人物だともされますが、これも後漢初期の『説文』が初出なのでさほど古くはありません。

 黄帝の名が初めて現れるのは、前4世紀に姜姓呂氏の斉国を簒奪し王位を号した田氏斉国においてで、宣王の頃(在位:前319-前301)の青銅器の銘文に「高祖黄帝」とあります。田斉王家の御用学者であった鄒衍は、黄帝を最古の帝王とし、その末裔だとして田氏を正統化しました。

 時代は下って西周の穆王(武王の玄孫、紀元前10世紀頃)は、後世の伝説によれば八頭の駿馬を手に入れ、これを馬車に繋いで西方の崑崙山へ旅行しました。彼が崑崙の西王母に歓迎されていた時、東方では徐の偃王が反乱を起こします。これを知った穆王は急いで帰還し乱を鎮圧しますが、この時に御者であった造父に「」という氏を賜い、趙城(山西省臨汾市)に封建しました。趙とは超で、ウマを素早く跳躍疾走させることをいいます。

 崑崙や西王母はともあれ、趙氏はウマと馴染み深い氏族でした。春秋時代には周王の分家である山西の晋国に仕え、晋公の戦車を操る御者として活躍し、頭角をあらわします。晋は北方の狄や胡と呼ばれる遊牧民と境を接しており、しばしば婚姻して同盟したため軍事力が強く、衰退した周王に代わって中原諸国の盟主(伯、覇者)となったほどでした。晋が有力家老(六卿)らの内紛で混乱すると、趙氏は韓氏・魏氏と手を組んで晋を三分割し、周王から独立した諸侯として認められるようになりました(造父伝説はこの頃に作られたのでしょう)。前4世紀に王を称した趙の武霊王は、北方の騎馬遊牧民を真似て「胡服騎射」を採用しています。

 武霊王の子・恵文王に仕えた趙奢は、前269年に秦軍を破った功績により馬服君に封じられました。その子孫は代々馬氏と号し、後漢の将軍・馬援らは趙奢の子孫であるといいます。また司馬という氏もありますが、これは周代に登場した官名で、戦国時代の兵法書『尉繚子』には「百人を卒、千人を司馬、万人を将が率いる」とあります。

食馬解囲

 晋や趙を西方から脅かしたのが、周王東遷ののち甘粛・陝西に興った秦国です。秦の始祖は周王に仕えて西戎・犬戎と戦い、功績によって諸侯に封建され、周辺諸国を併呑して勢力を伸ばしました。のちに始祖は造父と同族だとして系譜を造作し、趙氏を名乗っていたともいいます。

 秦の9代目の君主を任好といい、諡号を穆公といいます。彼は晋から妃を迎え、その従者であった百里奚を賢人であるとして宰相に取り立て、国政を委ねて強国としました。紀元前652年に晋で内紛が起きると、亡命してきた公子を支援して前650年に晋公(恵公)に擁立しますが、彼が秦に領土を割譲することを拒んだため腹を立て、前645年に晋へ侵攻します。

 この戦いで穆公は包囲され窮地に陥りますが、岐山に住んでいた300人の野人(蛮族)が彼を救出します。『呂氏春秋』等によると、かつて穆公は盗まれた愛馬を探して岐山を訪れますが、野人たちに喰われていました。穆公は彼らを処罰せず、酒を与えてもてなしたため、恩義を感じた野人たちは奮戦して報恩したといいます。これが「食馬解囲」の故事です。対する晋の恵公は戦車が泥に嵌って動けなくなり、秦の捕虜になってしまいます。穆公は彼を処刑する代わりに、彼の息子を人質にとり、領土割譲の実行を条件に釈放しました。こうして晋は秦に頭があがらぬ状態となります。

 前637年に恵公が薨去すると、秦にいた彼の息子が脱走して勝手に晋公(懐公)となったため、秦は恵公の兄・重耳(文公)を送り込んで即位させ、懐公を駆逐させます。文公は前635年に内紛に遭って亡命してきた周王(襄王)を匿い、戎狄を率いて王位についていた周王の異母弟を討伐し、周王を復位させました。また前632年には南から中原を脅かしていた楚の軍勢を諸侯の盟主として打ち破り、斉の桓公に次ぐ「伯(覇者)」となります。

 前628年に晋の文公が薨去すると、秦の穆公はこれ幸いと晋に侵攻しますが、晋に撃破されて撤退します。前621年に穆公は薨去し、以後秦はしばらく衰え、晋もまた衰えていくこととなります。

 後世の『韓非子』『呂氏春秋』『戦国策』『淮南子』『列子』などによると、秦の穆公には孫陽、字を伯楽という家来がおり、名馬を見出す術(相馬術)に長けていました。ある時、彼が自分のように名馬を見抜く人物として九方皐なる者を穆公に推薦しましたが、彼は「黄色い牝馬を見つけました」と言って黒毛の牡馬を連れて来ました。穆公が呆れて文句を言うと、伯楽は「彼は馬の外見などにとらわれず、本質を掴んでいます」と答えました。果たしてこの馬は千里の名馬であったといいます。人物の推挙になぞらえた後世の寓話でしょうが、彼のものとされる相馬術の書も一応伝わっています。

秦兵馬俑

 前4世紀中頃、晋は趙・魏・韓に攻撃されて完全に滅びます。しかし秦はこの頃に魏から衛鞅を招き、法家思想に基づく国政改革を行って富国強兵を推し進めました。前325年、秦は南の秦嶺山脈を超えて漢中を楚から奪い、翌年には王を称します。次いで前316年には巴(重慶)と蜀(成都)を征服し、東方諸国と対峙する大国となりました。東方諸国は同盟して秦に対抗しますが政治工作で切り崩され、前221年までに秦に併呑されます。秦の軍事力を支えたのが騎兵であったことは言うに及びません。

 東方諸国を滅ぼしたのち、秦王の政は王より上位の称号について群臣に協議させ、天地人の三皇のうち泰皇(人皇)が最も尊かったのでそれを称するよう上奏されましたが、政は三皇五帝から「皇帝」という称号を作り、最初の皇帝として始皇帝と名乗りました。泰皇・皇帝とは黄帝軒轅氏のことだともいい、東方で喧伝された神代の帝王を真似てそう名乗ったのでしょう。

 秦の始皇帝の陵墓には、有名な「兵馬俑(兵士とウマの陶器像)」が副葬されています。現在までに8000体の等身大の兵士の像、600体の軍馬の像、100余台の戦車が出土し、みな東方を向いています。また始皇帝の乗る四頭立ての馬車を御者やウマごと1/2サイズで再現した「銅車馬」も二組出土しており、当時のウマや馬具をうかがい知る貴重な資料ともなっています。始皇帝は諸国ごとに異なっていた馬車の車輪の幅(車軌)を統一し、天下に道路網を整備して自ら巡回しましたが、彼の崩御後まもなく秦は滅びました。

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【続く】

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