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【つの版】ウマと人類史:中世編01・蒼天狼祖

 ドーモ、三宅つのです。あまりに増えすぎたのでここから中世編ですが、前回の続きです。

 中央アジアから拡散したフーナ/キオニタエ/フン族の勢いは、南はインド洋に到達し、西はライン川を越えてオルレアンにまで及びました。欧州ではアッティラの死後急速に崩壊したものの、中央アジアやアフガニスタンではエフタルが強大となり、ペルシア帝国を脅かしています。しかし、やがてテュルクの一派である突厥が勃興し、内陸ユーラシアを席捲するのです。

◆狼◆

◆祖◆

高車興亡

 エフタルの東、高車や柔然、北魏の領域まで戻ってみましょう。アッティラの死と同じ頃、452年には北魏の太武帝が宦官の宗愛によって弑殺されます。宗愛は太武帝の末子で南安王の拓跋余を擁立して朝政を専断しますが、同年に拓跋余も宗愛に逆らって弑殺されます。北魏の忠臣たちはついに決起して宗愛を殺し、太武帝の孫にあたる拓跋濬(文成帝)が擁立されます。

 太武帝は道教を奨励して仏教を弾圧しましたが、文成帝は民力を休養し、仏教を奨励して求心力を高め、僧侶の曇曜の上奏を許して雲崗石窟を作らせています。一方で458年には柔然への遠征を行い、可汗の吐賀真を遁走させています。柔然は449年にも太武帝の大遠征を受けて衰弱しており、西部の高車勅勒のうち五部族が柔然から離反しました。彼らは盛大に天を祀って集まること数万に及び、袁紇(ウイグル)樹者を推戴して王としました。文成帝は彼らに服属を呼びかけましたが従わず、宇文福が追討したところ大敗したので、人を遣わして慰労させ、ついに従属させたといいます。

 464年に柔然可汗の吐賀真が逝去し、子の予成が跡を継ぎました。彼は独自の元号を建てて永康とし、柔然を建て直して盛んに北魏を攻撃します。また東の高句麗、南の劉宋・南斉と手を結び、西はタリム盆地北側諸国を服属させ、于闐や敦煌を脅かしました。北魏は西のエフタルと同盟してこれを防がせますが、柔然は北魏へも使者をたびたび派遣し、通婚を求めています。文成帝の跡を継いだ献文帝、文成帝の皇后であった馮太后はこれを拒み、国内外を固めて柔然の侵攻を防ぎました。

 485年に予成が逝去し、子の豆崙が即位すると、高車では独立の動きが高まります。この頃、高車は当初の六部族が倍増して十二部族の連合体となっていましたが、豆崙が暴虐残忍で柔然が混乱したため、高車副伏羅部の族長である阿伏至羅と従弟の窮奇が10余万落を率いて柔然から離反しました。阿伏至羅は候婁匐勒(大天子)、窮奇は候倍(儲主、太子)と号し、各々北と南に在って王となります。これは北魏の太和11年(487年)にあたります。

 太和14年(490年)、阿伏至羅と窮奇は使者を派遣して北魏と友好条約を締結し、ともに敵国柔然と戦うことになりました。492年、豆崙は阿伏至羅と戦いますが撃ち破られ、柔然人は彼を殺して叔父の那蓋を擁立しました。しかし窮奇はエフタルと戦って殺され、その子彌俄突も捕虜になると、残党は分散して北魏や柔然に投降しました。阿伏至羅も内紛に遭って殺され、一族の跋利延が擁立されて高車王となります。

 のちエフタルは高車を攻撃し、捕虜としていた彌俄突を王として送り込んだので、高車では跋利延を殺して彌俄突を立てました(508年)。これにより高車はエフタルの従属国となりますが、北魏と手を結んで柔然と戦うことは変わりません。彌俄突は西域の支配権を巡って柔然可汗の伏図(那蓋の子)と蒲類海(ハミ北方のバルクル湖)で戦い、一時は敗走しますが、北魏の援軍が近づいているとの報を受けて反撃し、伏図を討ち取って首級を北魏へ送りました。高昌国(トルファン)は柔然に背いて高車に服属し、西域の大部分は高車領となります。

 柔然では伏図の子の醜奴が可汗となり、516年に彌俄突を捕虜とします。彼は両脚を馬に結び付けられて引き裂かれるという残虐な方法で殺され、その髑髏は酒杯とされました。しかし醜奴も520年に彌俄突の弟・伊匐に討ち取られ、醜奴の弟の阿那瓌が即位しますが、跡継ぎを巡って争いが起きるという有様でした。伊匐も彌俄突と同じくエフタルの人質となっていた人物ですから、間接的ながらエフタルの勢力はトルファンに及び、アルタイ山脈から南、現新疆ウイグル自治区はみなエフタルの版図になったのです。

北魏分裂

 エフタルと高車を味方につけて柔然を牽制することで、北魏の西方・北方はやや平穏となりましたが、北魏ではこの頃に大異変が起きます。

 493年、北魏の孝文帝は平城(大同市)から洛陽へ突然遷都し、次々と漢化政策を打ち出します。これは馮太后の時から進められていましたが、急激な漢化は北魏に混乱を引き起こします。また首都の守護者として名誉ある存在であった国境防衛軍(六鎮)の政治的・経済的立場も下落し、中央政府に対する不満が鬱積します。洛陽遷都から30年後に「六鎮の乱」が勃発し、国境防衛軍は洛陽めざして進軍しました。

 柔然可汗の阿那瓌は「北魏を救援する」と称して六鎮に攻め寄せ、525年から527年にかけては北京周辺や江蘇省北部で反乱が相次ぎ、南朝梁も介入してきます。混乱の末に北魏は東西に分裂し、長安を都とする西魏は宇文氏が、鄴を都とする東魏は高氏が実権を握りました。柔然にとっては強敵が自壊してくれたのですから大助かりです。東西の魏国は柔然を味方につけようとせっせと使者を往来させ、正統政権であることをアピールしました。

 西魏は比較的国力が劣ったため、いち早く柔然と婚姻政策を行い、阿那瓌の娘が皇后に立てられます。しかし彼女は540年に難産で死去してしまい、柔然は東魏に接近します。栄えていた南朝梁も548年からの侯景の乱で崩壊し、頼りになりません。550年に東魏が高氏に禅譲して北斉が興ると、阿那瓌は孫娘を北斉の皇族に娶らせました。ところがこの直後、突厥が西から興って柔然を攻撃し、552年には阿那瓌を自決に追い込むのです。

狼祖淵源

 突厥とはそのまま「テュルク」の音写で、高車勅勒の一派と思われます。魏書は東魏の史書として北斉で編纂されたため、柔然(蠕蠕)についての記述は滅亡の前の時点までしかなく、西魏の後継国家である北周、隋、唐の史書である『周書』『隋書』などに突厥勃興についての記録があります。周書突厥伝を読んでいきましょう。

 突厥者、蓋匈奴之別種、姓阿史那氏。別為部落。後為鄰國所破、盡滅其族。有一兒、年且十歲、兵人見其小、不忍殺之、乃刖其足、棄草澤中。有牝狼以肉飼之、及長、與狼合、遂有孕焉。彼王聞此兒尚在、重遣殺之。使者見狼在側、並欲殺狼。狼遂逃于高昌國之北山。
 突厥は、おそらく匈奴の別種で、姓は阿史那氏という。(もともと匈奴とは)別に部落をなしていた。のち隣国に破られ、その部族は全滅した。ただ10歳の男児がひとりおり、兵は彼を見て殺すのに忍びず、その足の腱を切って、草の生えた沢に棄てた。するとメスの狼が彼を見つけ、肉を運んできて養育した。男児は成長するとこの狼と交わり、妊娠させた。隣国の王はこれを聞いて人をやり、彼を殺させた。使者は狼が彼の傍らにいるのを見て、これも殺そうとしたが、狼はついに逃げて高昌国(トルファン)の北の山(天山の支脈、ボロホロ山脈のボグダ山)に入った。
 山有洞穴、穴內有平壤茂草、周回數百里、四面俱山。狼匿其中、遂生十男。十男長大、外託妻孕、其後各有一姓、阿史那即一也。子孫蕃育、漸至數百家。經數世、相與出穴、臣於茹茹。居金山之陽、為茹茹鐵工。金山形似兜鍪、其俗謂兜鍪為突厥、遂因以為號焉。
 その山に洞窟があり、中には平野があり草が茂っていて、周囲数百里もあり、四面は山であった。狼はここに入って十人の子を産んだ。彼らは成長すると外から妻を娶り、阿史那という姓を名乗った。その子孫は増え広がり、数百の家になった。それから数世代して洞窟から出ると、茹茹(柔然)に服属した。彼らは金山(アルタイ山脈)の陽(南)に住まい、茹茹のために鉄工として働いた。金山は形が兜に似ており、彼らの言葉で兜を「突厥」ということから、そう名乗るようになったのである。

 高車は匈奴の単于の娘とオスの狼から生まれたとされますが、こちらは匈奴の別種の生き残りとメスの狼が先祖です。この狼の名とされる阿史那/アセナ(Asena)は、テュルク語でなくホータン・サカ語asseina(青/緑/灰色、青空の色)に由来しています。イラン祖語axšáyHnah、ソグド語axsēn、スキタイ語axini、オセチア語æxsinなどは皆同じで、パシュトー語、クルド語、タジク語、ペルシア語などにも同語源の語があります。つまりアセナとは灰色の狼、モンゴルの民族起源神話でいう「蒼き狼」にあたります。

 イラン諸語に近いインド諸語のサンスクリットでは、天空をアカシャ(akasha)といいますが、これも同じ語源です。スキタイは自分たちの南にある海が黒っぽいことから「黒い海(アクシニ)」と呼びましたが、ギリシア人はこれをギリシア語でアクセイノス(A-xeinos「よそ者を嫌う」)と聞き取り、エウクセイノス(Eu-xeinos「よそ者に愛想が良い」)と縁起の良い名に替えています。いま黒海というのは、近世にオスマン帝国がカラ・デニズ(黒い海)と呼んでいたからです。

 また、兜を突厥という云々というのは古テュルク語tuğluğ(馬の尻尾をつけた兜)に由来する俗説で、本来は勅勒と同じく「車輪(tekerlek)」からでしょう。テュルク諸語でも兜をtogulga,tuulga,dwlgaなどといい、モンゴル語に入ってduulgaとなりました。なお古くは馬の尻尾をつけた旗印をトゥグ(tug)といい、匈奴の屠各種や独孤氏もこれに由来するといいます。

 周書には、これと異なる起源伝説も記されています。

 或云、突厥之先出於索國、在匈奴之北。其部落大人曰阿謗步、兄弟十七人。其一曰伊質泥師都、狼所生也。謗步等性竝愚癡、國遂被滅。泥師都既別感異氣、能徵召風雨。娶二妻、云是夏神、冬神之女也。一孕而生四男。其一變為白鴻。其一國於阿輔水、劍水之間、號為契骨。其一國於處折水、其一居踐斯處折施山、即其大兒也。山上仍有阿謗步種類、竝多寒露。大兒為出火溫養之、咸得全濟。遂共奉大兒為主、號為突厥、即訥都六設也。
 あるいはいう。突厥の先祖は匈奴の北の索国(サカの国)である。その部落大人を阿謗步といい、兄弟は17人いた。その一人を伊質泥師都といい、狼から生まれた。阿謗步は愚かであったため部族は破滅したが、泥師都は既に別の場所におり生き残った。彼は魔術的なパワーを感知し、風雨を呼び寄せることができた。その妻は二人おり、夏の神と冬の神の娘であった。一方の妻は四つ子を生み、彼らのうち一人は白いコウノトリに変化したが、もう一人は阿輔水と剣水の間に国を建て、契骨(クルグズ)と号した。他の一人は処折水のほとりに国を建てた。最後の一人は処折施山に住み着いたが、これが大児である。大児は山上にいた阿謗歩の部族の生き残りを火で温め、寒露から助けた。それで君主に推戴され、国を突厥と号し、訥都六設(ナ・テュルク・シャド、最初の突厥の君主)となった。
 訥都六有十妻、所生子皆以母族為姓、阿史那是其小妻之子也。訥都六死、十母子內欲擇立一人、乃相率於大樹下、共為約曰、向樹跳躍、能最高者、即推立之。阿史那子年幼而跳最高者、諸子遂奉以為主、號阿賢設。此說雖殊、然終狼種也。
 訥都六設には10人の妻がいて、その子は母の族を姓とした。10番目の妻を阿史那氏といった。訥都六設が死ぬと、10人の母は子供たちのうち一人を選んで君主に立てようと欲し、子供たちを大きな樹木の下に集めて「一番高く跳躍できた者を君主にしよう」と誓約した。阿史那の子は幼年だったが一番高く飛んだので、諸子はついにこれを奉じて君主とし、阿賢設と号した。以上二つの説は異なるが、どちらにせよ狼の種族である。

 こちらは狼から生まれたシャーマンの男と、神々の娘から生まれたのがテュルクの祖で、その子が阿史那氏であるということになっています。ついでに『隋書』も見てみましょう。

 突厥之先、平涼雜胡也、姓阿史那氏。後魏太武滅沮渠氏、阿史那以五百家奔茹茹、世居金山、工於鐵作。金山狀如兜鍪、俗呼兜鍪為突厥、因以為號。
 突厥の先祖は平涼の雑胡で、姓は阿史那氏である。後魏(北魏)の太武帝が沮渠氏を滅ぼすと、阿史那は500家を率いて茹茹(柔然)へ逃れ、代々金山(アルタイ)に住んで鉄を作る職工となった。金山の形は兜に似ており、俗に兜を突厥というので、これにちなんで号とした。

 沮渠氏は五胡十六国時代に河西回廊を支配した北涼国の王家で、匈奴や月氏の支族という盧水胡の出身です。439年に太武帝が北涼を滅ぼした後、残党は鄯善(楼蘭)や高昌(トルファン)へ逃れ、460年に柔然に滅ぼされるまで続きました。ただ阿史那氏と沮渠氏の関係はわかりません。

 或云。其先國於西海之上、為鄰國所滅、男女無少長盡殺之。至一兒、不忍殺、刖足斷臂、棄於大澤中。有一牝狼、每啣肉至其所、此兒因食之、得以不死。其後遂與狼交、狼有孕焉。彼鄰國者、復令人殺此兒,而狼在其側。使者將殺之、其狼若為神所憑、歘然至於海東、止於山上。其山在高昌西北、下有洞穴、狼入其中、遇得平壤茂草、地方二百餘里。其後狼生十男、其一姓阿史那氏、最賢、遂為君長。故牙門建狼頭纛、示不忘本也。

 これに続いて周書とほぼ同じ狼祖伝説が語られ、「ゆえに彼らは牙門(テントの前)に狼の頭の纛(トゥグ、旗印)を建て、先祖を忘れぬようにするのだ」と伝えられています。ボグダ山はトルファンの西北、ウルムチの東にありますから、そこが突厥の故郷だったのでしょう。

 ここは柔然と高車・エフタル・北魏がぶつかり合う最前線で、アルタイ山脈から採掘される鉄などの鉱物資源を武器や防具に加工して、戦場へ送り込んでいたものと思われます。阿史那氏は柔然に隷属するテュルクの一部族として強制移住させられ、苛酷な労働を強いられていたのです。

伊利可汗

 其後曰土門。部落稍盛、始至塞上市繒絮、願通中國。大統十一年、太祖遣酒泉胡安諾槃陁使焉。其國皆相慶曰「今大國使至、我國將興也。」十二年、土門遂遣使獻方物。
 阿賢設の子孫を土門(トゥメン、万騎)という。突厥の部落はやや盛んになり、初めて北魏の長城に至って絹を商うようになり、中国(我が国)と通好したいと願った。(西魏の文帝の)大統11年(545年)、太祖(北周太祖宇文泰)は酒泉の胡人である安諾槃陁を使者として突厥に遣わした。その国はみなともに喜んで「いま大国の使者が来られた。我が国はまさに興隆するに違いない」と言い合った。翌年、土門はついに使者を派遣し貢納した。

 土門の名は、冒頓単于の父・頭曼と同じくテュルク語で「万」を意味し、1万の騎兵を率いる部族長であることを表す称号でしょう。後の突厥碑文では、初代の君主はブミン(Bumin)と記されています。『隋書』によると、阿賢設が洞窟から部族を率いて出た後、突厥は代々茹茹に仕えました。やがて大葉護(ヤブグ、族長)に至ってやや強くなったといいます。

 時鐵勒將伐茹茹、土門率所部邀擊、破之、盡降其眾五萬餘落。恃其彊盛、乃求婚於茹茹。茹茹主阿那瓌大怒、使人罵辱之曰「爾是我鍛奴、何敢發是言也?」土門亦怒、殺其使者。遂與之絕、而求婚於我。太祖許之。十七年六月、以魏長樂公主妻之。是歲、魏文帝崩、土門遣使來弔、贈馬二百匹。
 時に鉄勒(高車勅勒)が茹茹(柔然)と戦い、土門は部族を率いて鉄勒を攻撃し、これを撃破して5万余落(1落20人として100万人、10倍誇張としても10万人)もの集団が降伏した。土門はこの強盛をたのみ、茹茹に婚姻を申し込んだ。茹茹の可汗の阿那瓌は激怒し、使者を派遣して罵り辱め、「貴様らはわしの鍛奴(鍛鉄奴隷)ではないか!よくもそんな口をきけたものだな!」と伝えた。土門は怒って使者を殺し、茹茹から独立した。そして改めて我が国(西魏)へ婚姻を申し込んだ。太祖(宇文泰)はこれを許可し、大統17年(551年)6月、魏の長楽公主を土門に娶らせた。この歳、西魏の文帝は(3月に)崩御しており、土門は弔問の使者を派遣して馬200匹を贈った。

 突厥は柔然と断交し、西魏/北周と手を結びました。東魏改め北斉からは遠いので、近い西魏としか結びようがありません。この頃の柔然は、先述のように西魏より東魏に接近しており、西魏は高車・突厥、ひいてはエフタルと結ぶことになります。傀儡とはいえ皇帝の喪中だというのに、皇族を嫁がせたりして儒教的に問題だと思いますが、細かいことをいうと誅殺されます。

 魏廢帝元年正月、土門發兵擊茹茹、大破之於懷荒北。阿那瓌自殺、其子菴羅辰奔齊、餘眾復立阿那瓌叔父鄧叔子為主。土門遂自號伊利可汗、猶古之單于也。號其妻為可賀敦、亦猶古之閼氏也。土門死、子科羅立。
 西魏の廃帝元年(552年)正月、土門は兵を発して茹茹を攻撃し、大いにこれを撃ち破った。阿那瓌は自殺し、その子の菴羅辰は北斉に亡命した。残党は阿那瓌の叔父の鄧叔子を可汗に立てた。土門はついに自ら伊利可汗(イルリグ・カガン、国を持つ可汗)と号し、その妻を可賀敦(カガトゥン)と号した。そのむかし匈奴が君主を単于、その妻を閼氏と呼んだのと同じである。やがて土門は死去し、子の科羅が立った。

 アッティラの死から百年後、アルタイと天山の間、ジュンガル盆地を根拠地として、テュルク系諸部族の連合体である突厥可汗国が姿を現しました。彼らはまもなく柔然やエフタルを併呑し、ユーラシア内陸を支配する大帝国へと発展するのです。

◆突厥◆

◆行進◆

【続く】

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