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【つの版】度量衡比較・貨幣77

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1582年6月、織田信長は明智光秀の謀反によって京都・本能寺で落命します。しかし織田氏はまだ滅びていません。羽柴秀吉は毛利氏と和睦すると畿内へ取って返し、光秀を討つことになります。

◆黒◆

◆田◆

諸将混乱

 本能寺の変の時、摂津国住吉には信長の三男である信孝がおり、四国攻めのために大軍を率いて待機していました。織田家の宿老・丹羽長秀は彼の輔佐として大坂におり、変の同日には四国へ出発する予定でした。彼らは変の情報を最も早くキャッチしており、一気に上洛すれば光秀を討ち取ることができたかも知れません。しかし近すぎたゆえに箝口令が徹底できず、寄せ集めの兵力であったことから離反が相次ぎ、動くに動けない状態でした。

 信長の同盟者・徳川家康は堺にいましたが、信孝・長秀らとほぼ同じ頃に変の情報をキャッチし、恐れおののきます。彼の周囲には僅かな供回りしかおらず、光秀に呼応した敵に襲われればひとたまりもありません。取り乱した彼は後を追って切腹しようとしますが家臣らに制止され、本国三河へ帰還すべく有名な「伊賀越え」を行いました。彼らから離脱した穴山信君は落ち武者狩りに遭って殺されますが、家康一行は伊勢湾を船で渡って5日には三河に帰還できました。しかし東国の旧武田領では大反乱が起きていて光秀を討つどころではなく、武田領を預かっていた滝川一益も動けませんでした。

 家康が通過した伊勢国の北部には信長の次男・信雄(この頃は北畠信意と名乗っています)がいましたが、兵の大部分を四国攻めのために信孝に供与しており、手元には2500ほどしかおりません。彼は急報を聞いて近江国甲賀郡土山まで進軍したものの、天正伊賀の乱で伊賀衆から恨みを買っており、背後を伊賀衆に脅かされてやむなく撤退しました。

 畿内南部の大和国には筒井順慶がおり、信長に臣従して大名となっていましたが、彼は光秀と友人関係にあり、味方につくよう誘われます。しかし彼は光秀につくことを躊躇い、消極的にしか協力せず日和見しました。光秀は近江を制圧したあと、山城と河内の境の洞ヶ峠に布陣して順慶を威嚇しますが、順慶は動かなかったといいます(「洞ヶ峠を決め込む」という有名なコトワザのもとですが、順慶が洞ヶ峠に布陣したわけではありません)。

 対上杉方面軍を率いる柴田勝家は、越中国の魚津城を包囲中でした。陥落直後に急報を受け、光秀を討つべく撤退しますが、上杉方の妨害工作によって動けない状態が続きました。光秀はこの隙に近江を離れ、順慶を威嚇して味方につけるべく洞ヶ峠に移動しています。もし順慶が光秀に積極的に味方すれば、少なくとも畿内は光秀のものになっていたかも知れません。上杉や毛利、武田の旧臣らも光秀につけば、天下の大勢は光秀に傾きます。

秀吉回天

 備中高松城で毛利氏の軍と対峙していた羽柴秀吉も、手元に軍勢があっても迂闊に動けない状況は同じです。しかし彼は卓越した政治力と軍才、各地に築いてきた兵站を用いて「中国大返し」をやってのけます。

 秀吉と毛利氏はこれに先立って講和交渉を行っており、毛利氏は「備中・備後・美作・伯耆・出雲割譲と城兵の生命保全」との条件を提示しますが、秀吉はこれに加え「城主清水宗治の切腹」を要求し、交渉は長引いていました。6月3日の夜、秀吉は畿内に送り込んでいた密偵によって(あるいは光秀から毛利氏に送られた密使を捕らえて)本能寺の変について知ります。

 幸いにも毛利氏にはまだ報せが届いておらず、秀吉はこれを隠したまま翌4日に毛利氏と講和交渉を再開します。秀吉は先の条件を緩和し「宗治が切腹すれば城兵の命を助け、割譲も備中・美作・伯耆の三国にとどめる」と提案します。制海権を失い兵站に不安もあった毛利氏はやむなく同意し、宗治は小舟の上で切腹して果てました。秀吉は高松城を接収すると一日待機し、6日昼過ぎに包囲を解いて撤退を開始します。毛利氏はその翌日に雑賀衆から本能寺の変について聞き及んだものの、すでに秀吉との講和は成っており、追撃して畿内へ侵攻する余力もないとして撤退しました。

 秀吉は出発前の6月5日、摂津茨木城を守る中川清秀に返書を送り、「野殿(岡山市北区野殿)で手紙を受け取った。6月5日には沼城(亀山城)まで戻るだろう」「京都からの情報では、上様(信長)も殿様(信忠)もご無事であり、近江の膳所まで逃れられたとのこと」と告げています。清秀が光秀につかないよう偽情報を流して牽制したわけです。実際信長も信忠も遺骸が発見されておらず、生存しているとの情報も流れていて、諸将は迂闊に動けませんでした。沼城こと亀山城は備前の大名・宇喜多直家の居城で、高松城からは22kmほどあり、6月6日のうちには2万の秀吉軍が入城しています。

 秀吉はここで数時間休憩した後、播磨における秀吉の居城であった姫路城へ向かいます。ここはもと姫山城といい、黒田官兵衛の居城でしたが秀吉に献上されていました。現在のように巨大化したのは関ケ原以後ですが、秀吉は自らの拠点として城下町を整備し、山陽道を捻じ曲げて姫路へ向かわせています。亀山城から姫路城までは70kmほどで、船坂峠という難所もあり、通常行軍なら4日か5日、急いでも3日はかかりますが、毛利氏の一か八かの追撃を警戒した秀吉は1日で走破させ、6月7日の夕刻には到着しています。

 当日は暴風雨で川が増水していたという記録もあり、2万の大軍が全員1日で駆け抜けたわけでもないのでしょうが、当時としても驚異的な速度です。秀吉たち少数の者が各所に配備されていた替え馬を利用して真っ先についたというだけかも知れません。ともあれ秀吉は城につくと将兵を順次休憩させるとともに、蔵奉行を召集して金銭や米穀を勘定させ、身分に応じてことごとく分与しました。姫路に籠城して光秀を迎え撃つのではなく、畿内へ攻め込んで光秀を討つ、それしか生きる道はない、という意志を明確にしたのです。光秀も6月8日には近江坂本城において「秀吉が攻めてくる」との情報をキャッチし、上洛して迎え撃つことにしました。

 6月9日朝、秀吉は留守居を残して姫路を出発し、明石を経て兵庫港近くに野営します。また別働隊を淡路島に派遣して毛利方の洲本城を襲撃させ、落城させています。さらに播磨・摂津国境に砦を築かせ、光秀軍の襲撃に備えました。光秀は同日に上洛し、朝廷に銀子500枚を献上、寺社や公家、町衆にも銀子や免税特権をばら撒き、天下人として振る舞っています。また中立を宣言した長岡藤孝(幽斎)、筒井順慶らに書簡を送って協力を呼びかけますが、両者は動きませんでした。秀吉も光秀も各方面に書簡や風評を流し、情報戦を展開しつつ慎重に行軍します。

山崎合戦

 6月11日、秀吉は兵庫から尼崎に入り、大坂の信孝・長秀、伊丹有岡城主の池田恒興らに尼崎着陣を告げ、「逆賊明智光秀を討つ」と宣言しました。光秀は順慶が動かぬと見て洞ヶ峠を降り、下鳥羽に陣を敷くと、天王山の周辺の城砦を修築して別働隊を入れ、秀吉との決戦に備えます。

 6月12日、秀吉軍は尼崎から富田(高槻市)に着陣し、摂津の諸将は相次いで秀吉の陣営に馳せ参じます。信孝・長秀らも四国攻めを取りやめ、残った将兵を率いて合流し、父と兄の仇討ちという大義名分のために信孝が光秀討伐の総大将となります(信長の四男・秀勝も秀吉の養子として参陣していますが、まだ13歳の少年です)。しかし信孝らの率いる兵はすでに4000まで減っており、2万余の軍を率いる秀吉が主導権を握ることとなります。

 対する光秀軍は順慶・幽斎らの援軍を得られず、集まった軍勢は1万5000ほどで、2万とも4万ともいう秀吉軍より少ない数でした。ただ摂津から山崎を経て京に入るには、淀川と天王山に挟まれた沼地の間の狭隘な道を通るため、大軍を進めようとしても縦長になるしかありません。そこで光秀はこれを塞ぎ、順次撃破して食い止める作戦に出ます。

 秀吉軍は左翼に摂津衆、右翼に池田恒興らを配置し、小競り合いしながら光秀軍とにらみ合います。6月13日夕刻に激戦が始まり、池田恒興勢の渡河奇襲作戦を契機として右翼から光秀の本陣が攻撃され、光秀軍は総崩れとなって敗走します。秀吉側も疲労が大きく追撃は散発的になりましたが、光秀軍は兵が逃げ散って壊滅状態となり、光秀は居城の近江坂本城まで落ち延びようとしていたところを、伏見の農民による落ち武者狩りに遭遇して落命しました。ここに天下分け目の戦いは終結し、秀吉は近江に侵攻して残党を滅ぼします。彼は明智光秀討伐の大功によって織田家第一の重臣となり、主家と天下を牛耳っていくことになるのです。

 いわゆる「天王山の戦い」というのは、後世の軍記物語に「天王山の争奪戦が勝敗の決め手となった」と書かれたことによるものですが、これは史実ではないため歴史学上では「山崎の戦い」と呼ばれます。また光秀が「三日天下」だったというのも誤りで、本能寺の変で信長を討ってから少なくとも10日以上は天下人として振る舞っています。

◆秀◆

◆吉◆

【続く】

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