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【つの版】ウマと人類史:近世編04・老帝晩年

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 オスマン皇帝スレイマンは、ハンガリーの大半を征服してウィーンを包囲し、イラクや北アフリカ、地中海にまで版図を広げました。しかし宮中では寵愛や後継者を巡って争いが起き、勢力拡大も限界を迎えつつあります。

◆天国◆

◆扉◆

東方情勢

 1543年、スレイマンと皇后ロクセラーナの長男メフメトが天然痘に罹って22歳で病没すると、スレイマンの最初の妻マヒデヴランが生んだ長男ムスタファに注目が集まります。彼は1533年にアナトリア西部のマニサ総督の地位にあり、皇太子として扱われていましたが、1541年に東方のアマスィヤ総督とされ、メフメトがマニサ総督とされます。メフメトの同母弟セリムとバヤジットは各々コンヤとキュタヒヤに封じられていました。

 1544年、ロクセラーナはメフメトに代わってセリムをマニサ総督とし、バヤジットとムスタファは留任させました。娘婿リュステム・パシャは大宰相となり、ロクセラーナ派による宮中支配は安泰です。ムスタファはやむなくアマスィヤにとどまり、東方防衛を担い続けました。

 この頃、サファヴィー朝の君主タフマースブ1世はタブリーズから南東のガズヴィーンに都を遷していました。イラクを失ったものの、勇猛な騎馬遊牧民クズルバシュ/トゥルクマーンやグラーム(奴隷騎士)らを率いたタフマースブはイラン高原の統治を進め、西のオスマン帝国や東のシャイバーニー朝と戦い続けます。

 インドでは1530年にムガル帝国の建国者バーブルが崩御し、子のフマーユーンが跡を継ぎましたが、アフガン人のシェール・シャーに敗れて1540年にデリーから追い出されてしまいます。フマーユーンは北西インドからアフガニスタンへ逃亡したのち、1543年にタフマースブのもとへ亡命しました。タフマースブは彼を歓迎し、自分と同じシーア派に改宗することを条件に支援を約束します。1545年にシェール・シャーが事故死するとインドは混乱に陥り、フマーユーンはタフマースブの支援を得てカンダハールへ帰還し、インドを奪い返すべく9年に渡る戦いを開始します。

再三東征

 このような情勢を見て、スレイマンは1547年に東方遠征を再び行います。この遠征にはフランス大使ガブリエル・デ・ルッツらも同行し、1548年にヴァンの街を包囲した時は砲兵の配置について助言したといいます。スレイマンはアルメニア、ジョージア、アゼルバイジャンへ勢力を拡大したものの、タフマースブの焦土作戦に苦しめられ、1549年に撤退しました。この時ムスタファはアマスィヤ総督を解任され、コンヤに遷されています。

 これと前後して、オスマン帝国とポルトガルの戦争も激化していました。マムルーク朝を併呑して紅海を、サファヴィー朝からバスラまでのイラクを奪ってペルシア湾への出入口を獲得したオスマン帝国にとって、その出入口を阻むポルトガルは常に邪魔です。ポルトガルはキリスト教国エチオピアや反オスマン派のサファヴィー朝などと手を組んで対抗し、オスマン帝国はイスラム世界の盟主としての権威やカネで対抗勢力を煽り立てます。

 1552年、オスマン海軍はペルシア湾の出口を抑えるポルトガル領ホルムズを撃破すべく出発しますが、勝利を得られず撤退します。司令官ピーリー・レイースは敵前逃亡の罪に問われ、1554年頃に処刑されました。

 1553年10月、三度東方遠征に出陣したスレイマンは、ムスタファを「ペルシアと内通していた」として絞殺させました。これは皇后ロクセラーナと宰相リュスタム・パシャの讒言によると言われますが、軍中には不穏な空気が漂います。スレイマンは責任をとらせるためリュスタムを宰相から解任し、自分の妹の夫であるカラ・アフメト・パシャを宰相とします。11月にはスレイマンとロクセラーナの末子ジハンギルが21歳で病死しました。

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 スレイマンはそのままサファヴィー朝との戦争を続行し、1555年5月末にアマスィヤ条約を結んで和睦を成立させました。これによりアルメニアとジョージア、クルディスタンは東西に分割され、東側はサファヴィー朝に、西側はオスマン帝国に属することになります。サファヴィー朝はタブリーズを含むアゼルバイジャン地方とカフカース北西部を保持し、ヴァンやエルズルムなどは緩衝地とされます。一方でオスマン帝国はイラクおよびペルシア湾西岸を獲得し、東方へ大きく拡大しました。

 アケメネス朝ペルシア以来、イラン高原に興った帝国はおおよそイラクをも支配して帝都か副都を置いていましたが、ここにイラクはイラン高原から剥ぎ取られ、オスマン帝国の一部となったのです。ローマ帝国が一時的にイラクを征服したことはしばしばありましたが、オスマン帝国によるイラクの支配は17世紀の一時期を除いて400年近く続きました。イラクは肥沃な農地と河川交通、ペルシア湾交易などによって太古より栄えた土地であり、長年の戦乱で荒廃してはいたものの重要な地域でした。

 ただ南部にはシーア派の聖地カルバラー(フサインの殉教地)やナジャフ(アリーの墓所)があり、世界各地のシーア派の巡礼地です。スンニ派の盟主たるオスマン帝国はこの巡礼を許可し、ペルシアからマッカやマディーナ、エルサレムへの巡礼も同様に許可しました。禁止して宗教紛争が起きれば互いに面倒です。代わりにスレイマンは、サファヴィー朝がアリー以外の正統カリフらに行っていた呪いの言葉を唱えないよう要求したといいます。

 カイロ・アッバース朝のカリフであったムタワッキル3世は、オスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼした後イスタンブールへ迎えられ、1543年に跡継ぎなく逝去しています。傀儡とはいえスンニ派の盟主たるカリフがいないままオスマン皇帝はスルタンと称し、イスラム世界に実力で権威を振るっていました。後世の伝説ではムタワッキルはカリフの位をオスマン皇帝セリム1世に譲位したとされますが、これは後付の話のようです。

老帝晩年

 1555年9月、宰相カラ・アフメト・パシャは突然処刑され、リュステム・パシャが宰相に復帰しました。皇后ロクセラーナは引き続き彼とともに国政を牛耳り、60歳を超えた夫の跡継ぎとしてセリムかバヤジットをつけようとします。しかしセリムは酒飲みの放蕩息子で、イェニチェリからの支持はあったものの、バヤジットの方が人々からは有能と見られていたようです。

 1558年4月、皇后ロクセラーナは夫に先立って崩御します。セリム派とバヤジット派はたちまち後継者を巡って暗闘を繰り広げ、セリムの家庭教師ララ・ムスタファ・パシャはスレイマンに偽の手紙を献上してバヤジットを貶めました。怒ったスレイマンはバヤジットをキュタヒヤから東方のアマスィヤへ更迭し、セリムを後継者に指名してコンヤに駐屯させます。

 1559年、バヤジットはサファヴィー朝と手を結ぶとトゥルクマーンやティマール(封地)持ちの騎士たち2万を率いて東方で反乱し、コンヤへ押し寄せました。第三宰相ソコルル・メフメト・パシャは援軍を率いてコンヤへ駆けつけ、反乱軍を撃破します。バヤジットはサファヴィー朝へ亡命し、タフマースブは彼を歓迎しますが、ソコルルはバヤジットを引き渡させるべく交渉を重ね、大金を支払って1561年に返還させました。かくてバヤジットは絞殺され、セリムがスレイマンに残された唯一の跡取り息子となりました。

 とはいえ従順なだけで怠惰なセリムには人望がありません。リュステム・パシャも1561年に逝去しており、次の大宰相にセミズ・アリ・パシャが就任すると、ソコルルは第二宰相としてセリムの後見人候補となります。

 神聖ローマ皇帝カール5世は1555年に退位して1558年に亡くなり、跡を継いだ弟フェルディナントも1564年に崩御し、フェルディナントの子マクシミリアンが帝位を継ぎます。70歳を迎えていたスレイマンは、この機会に欧州方面への遠征をまたも開始します。

 地中海を巡るオスマン帝国と欧州との戦争は長く続いており、1560年にはチュニジアのジェルバ島で欧州連合艦隊がオスマン艦隊に敗れていました。またかつてロドス島にいた聖ヨハネ騎士団はマルタ島に遷って対オスマン戦争を継続しており、しばしば襲撃を受けています。スレイマンはこれを始末すべく、ララ・ムスタファ・パシャに大軍を授けて1565年にマルタ島を攻撃させます。しかしオスマン軍は陸海軍の指揮官が対立していて指揮系統が一本化されず、激しい抵抗と疫病、暑熱に遭って大損害を蒙り撤退します。

 同じ1565年、ソコルル・メフメト・パシャはついに大宰相の位に登りました。しかしマルタ島での敗戦が帝都に伝えられると、老皇帝はメンツを保つためか翌年ハンガリーへの遠征を開始します。即位後まもなくベオグラードを陥落させるなど幸先よく戦えたことを思い出したのでしょうか。目的はおそらくハンガリー全土の併合、ないし属国・東ハンガリーの拡大でしたが、オスマン軍の前にはズリンスキという男が立ちはだかります。

 彼はクロアチア人で、ハプスブルク家よりクロアチアの総督(バン)に任命され、しばしばオスマン軍と戦って手柄を立てました。1557年からは総督に代わって財務長官の地位につき、クロアチア貴族の長となっています。彼はウィーンへのルートを守るスィゲトヴァールという要塞に兵を集め、オスマン軍を翻弄します。スレイマンは痛風に悩まされながらも兵を進め、宰相ソコルルに指揮権を授けてスィゲトヴァールを包囲させました。

 ズリンスキは3000ほどの兵を率いて、15万ものオスマン軍を1ヶ月も防ぎます。神聖ローマ皇帝マクシミリアンは8万の軍を率いてハンガリーに向かいますが、敵があまりに大軍なため近づけず、スィゲトヴァールは陥落寸前となりました。しかし1566年9月6日、スレイマンは71歳で崩御します。翌日オスマン軍の総攻撃が始まり、ズリンスキは壮烈な戦死をとげました。城内の火薬庫に火がつけられて大爆発が起こり、オスマン兵数千を吹き飛ばしたとも伝えられています。

 スィゲトヴァールは陥落したものの、宰相ソコルルは皇帝の死を秘して勝利を宣言したのち撤退し、皇太子セリムを帝位につけました。ズリンスキはクロアチアとハンガリーにおいて、オスマン帝国の侵略から祖国を守った国民的英雄として讃えられています。

◆U boj◆

◆U boj◆

 セリムは国政の一切をソコルルに委ね、ソコルルはマクシミリアンと和平を結び、フランスとも友好関係を継続して帝国を安定させます。しかしこの頃、黒海の北方ではモスクワ大公国が勢力を広げ、タタール諸国を併合してクリミアを脅かし始めていました。長きに渡る露土戦争の始まりです。

【続く】

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