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2月28日AI全盛期に「書く」意味とは

AIが台頭してきているこの時代、ChatGPTなどでも簡単に文章を生成出来るようになった。私が今使ってるこのnoteにも「AIアシスタント」という機能があって、文章を書く時に「こんなテーマで書いたら良いんじゃない?」という提案をしてくれる。

いわば「書こう」と思わなくても「それとなく書ける」時代がやってきたのである。

書いてあることの内容が相手に伝わればそれで「伝える」という文章が持つそのものの役割は完了してしまう。だったら労力をかけずに簡単にAIに書いてもらうのが良いのだろうか。

この時代に頭を捻らせながら「何を書こうか」と考えることに何の意味があるのだろうと考える。

私はどちらかと言うと、「誰かに私の想いを聞いて欲しい」と思って書くというよりも、「自分で自分のために書く」ことが多いように思う。書くことで頭の中の整理をしたり、脳のデトックスをするために頭の中に溜まっている情報を外に出しているようなイメージである。

後から振り返って読んでみると「あぁ、こんな事も考えていたな」と思い出すことも出来るので、自分の思考を書き溜めている長い日記のようなものかも知れない。

以前文章力を上げようと思って「ライティング講座」に参加したことがあるが、その講座は「どうやったらネットでバズる文章を書くことが出来るようになれるか」「バズりは体系的に再現出来る」ということを中心に文章の組み立て方を教えいるものだった。途中で飽きてしまって最後まで受講することは出来なかった。

文章力がある、人を惹きつける文章を書けるということは「バズる」ことと同義なのかとちょっと疑問に思う。バズることは十分条件であって必要条件ではないのではないかと私は思う。

万人にバズらなくても、しっかりと私の心に引っ掛かり、血の通った温かい心のエネルギーとなってくれる文章は確かにある。そんな文章を書けるようになりたい。

生身の人間がウンウンと頭を捻らせて、経験や感情を揺さぶられた出来事を経て絞り出した言葉だからこそ、その言葉がぴったりと当てはまる人がいるのではないだろうか。誰かの言葉を借りることで自分の気持ちが落ち着き、心が軽くなった経験が私にもある。

先ほど私は「誰かに私の想いを聞いて欲しい」と思って書くというよりも、「自分で自分のために書く」ことが多いように思う。と記したが、もしかしたら私が書き物をするということは過去、もしくは未来の自分に宛てて手紙を書いているような感じなのかも知れない。

例えば、「大丈夫、こういうことを考えていたけど、今はこうなったよ」「大丈夫、こういう風に前向きに考えられる力が私にはあるよ」と自分に言い聞かせるために。

自分で自分をケアするために書いているのかも知れない。そしてそれはAIには出来ないことであって、唯一無二の私にしか出来ない行いだと思う。自信を持って今日も明日も、書こう。

うちの金魚に美味しいエサを食べさせたいと思います。