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臥薪嘗胆

私は、今まで多くの犯罪被害者の人たちと関わり出来る限りの助言をしてきたつもりである。
その人に合うニーズの最適解を伝える様に心掛けてきた。
しかし、最終的にその助言を行動に移すか移さないかの裁量はご本人にあることであって、必ずその助言を実行するべきだとは全く思わない。
しかし、中にはその行動と真逆に行き、願ったような結果を得られていない被害者が存在している。
その人の加害された屈辱と言うものは、同じ被害者として理解できるからこそ、その人が望むように物事が運べばと思ってやまない。

私は常々思っている、犯罪被害と戦うということは人生の一部を切り落とすようなものであると。
単純に、加害者を極刑にしてほしいと法定刑の上限を超えた望みを言う人も存在する。それは、被害者それぞれであるが当然の思考でもあると理解ができる。

とても悲しいが、感情論で人を裁くということは決してできないし、するべきでない。その理由は、その裁きを受ける人は社会的に死ぬということに加え、多くの問題が存在する。
この国は法治国家であり、法と証拠のみで裁くからこそ天秤を持った女神は目隠しをしている。そこに大きく感情論を持ち出すということは、裁判官や裁判員に対していい心証を与えることは一切なく、ヒステリックな被害者が暴論を唱えていると、被告弁護人からの尋問でさらにエキサイトして思ったような判決が取れないというのがを常である。
だからこそ、私は10年間の間、一切のSNSを利用しなかった。
全ての民事裁判が終わったのが平成29年。
もしも、私があの時にSNSを利用していたら確実に加害者のパーソナルな部分や有利になることを書いてしまっていただろうと。
一切、感情的になることなく刑事公判を終えた。
刑事裁判以前に警察と検察での供述調書の作成段階から、どれだけこの司法や捜査機関を味方に出来るかにかかっていると思っていた。
法と言うものを扱っているのは人間である。
最高裁がなぜ作りかけの様なのか、それは法は未熟だからということを表している、それと同じように未熟である法と言うものを私の味方につけてしまえば、こちらのものだと。
被告的には姑息な手段も使ったと思う、特に性犯罪の裁判員裁判での求刑越えが散見されていたので、「これは攻略できる」と私は思った。
被告弁護人が私に対して卑猥な単語を言わせようと煽ろうが、被害結果が軽いといおうが、ただにらみつけるだけで一切の感情を出さなかった。
もしも、あの時「あなたはさ、なんでそんなことを仕事でも言えるの?」とでも言っていたら、求刑7年に対して七掛けになっていただろうと思う。
その時、自分がものすごく冷徹な人間だったとしても、この人間を1日も長く刑務所に入れておくためにはなんだってしますよと思っていた。
人を裁くとき、それは警察に被害届を出す段階から感情的になることは、
一番してはいけないムーブであって、警察官は法律家ではないからこそ
人としての感情を動かすという努力をするべきである。
努力なんてできません、と言う人もいるかもしれないが、本当に心から加害者に対して重い罪を求めるならば、人を取り込むほかないのだ。
そして、世論を味方にしていく。
多くのケースで民事訴訟は請求額より少なくなるが、2回の訴訟提起で1円も減額されずに勝訴が出来た。それは、全てが証拠で成り立っているということである。

時々、お金がないので弁護士に依頼できませんと言う相談がくるが、
法テラスに相談をすれば、償還できなければ猶予してもらうことも可能である。預貯金が法テラスが定める金額以下であれば、印紙代は国費で支払ってもらえる。憲法で何人も裁判をする権利があるからこそ、法テラスと言うものが存在しているのである。それも嫌です、弁護士に二次加害されましたとなったら、本人訴訟をする以外ないんじゃないですかと私は思う。
本人訴訟をするならば、相当な法知識が必要となる。
少なくとも、刑事訴訟法はみっちり頭に入れないと難しい。
そのうえ、中には被告と顔を合わせなければいけないケースも0ではない。
(低額な訴訟は別として)
1人の弁護士に絶望するときも勿論あると思うが、弁護士は数多いるわけだって、自分に合う犯罪被害者支援をしている弁護士を当たるほかない。
二次加害と言うものは決してあっていいものではないが、刑事訴訟で公開の裁判になれば、嫌と言うほどに被告弁護人から二次加害的発言を恣意的にされてしまうので、訴訟の前段階で折れてしまう気持ちもわかるが、本当に心の底から加害者に厳罰をと望むのであれば、肉を切らせて骨を断つという部分はどうしても必要となる。

私自身、刑事公判では嫌な思いしかしていない。
私をあえて苛立たせて、怒らせたら裁判官と裁判員の心証が悪くなる
それが、被告弁護人の仕事でしかない。
二次加害と言うものは、生きていたら何かしらあるわけである。
まあまあ、腹は立つものの善意から出た言葉であったりする場合、
「この人は悪気がなく言っているんだろうけれどもね」と思うが、
メサイアコンプレックスを炸裂させたような人が一番たちが悪い訳であって、面白半分で被害態様を聞いてくるかのどちらかである。

私が得た、求刑を超える判決や2度の民事訴訟の勝訴と言うものも今となっては、仮初も仮初であって、加害者が死んだら全く意味がない。
人の10年とかけてきた労力というものを一体なんだとおもっているのかと。非常に悲しい気持ちになる。
自殺をするのは、とても冷たいけれども人の勝手だと思っている。
その人が選んだんだったら、その人にとっての最善だったんだろうなと。
いつ死ぬかなんて人は分からないから、自殺が寿命だったんだろうなと。
自分が死んだことで、それほどに世の中に影響を与えるとおもいあがっているのだろうか、と思う言葉を見ることがある。
その時に私はよく言う、
「犯罪被害者の権利拡充が進んでいない、だから霞が関で焼身自殺をしたら、法案は成立するのか」と。まず、しないのである。
そして、3日も経てば世論は忘れる。
今の私が、自殺をしたら喜ぶ人もいるかもしれない。そのために死ぬ意味が全く分からない。
私が自殺を選ぶとすれば、逃れられない痛みであるとかそういう身体と精神の問題に尽きる。

昔友人が、元旦那に当てつけで自殺をしたことがあった。
自殺を当てつけでしても、死んでしまっていたら、その訃報を知った
元旦那の気持ちを知るすべもない。案の定、元旦那は悲しむこともなく
「やっと解放されたわ」と普通に再婚しているのだ。
当てつけで死ぬというならば、社会的に成功してFIREでもしてのんびり生きたらいいじゃないかと思ってしまった。その友人の訃報に接したとき、私は全く悲しくもなかったし、涙すら流れなかった。子どもの前で自殺をするという行動がどれだけとんでもない行動なのかと。
理由が「当てつけ」とメッセージが来ていた時、「へ?」としか言葉が出てこなかった。一体、何の当てつけなんだろうかと。

悲しいけれど、自殺をしたとしても社会は回るし親や友人も普通にしばらくたてば、普通の生活に戻っていく。死と言うものは人の感情を扇動する道具でもなければ、なんでもない。
私自身、「早く死にたいな」と思うことはあるが、じゃあなんで死なないんですかと聞かれたら、「別に、明日死んだっていいわけだし」とか株価が気になるとかそんなものだと思う。自分探しだとかなんだとかアイデンティティが確立されたいい大人が「生きる意味って何だろう」と考えたって、
哲学者がどれだけ考えあぐねいたところで「われ思う故にわれあり」に収まって、ルサンチマン全開になって生きちゃうのが見えているから、私はもう考えない。あと4年したら、不惑の年になるわけでいつまでも人生に迷っていてはいけないなと思う。
とはいえ、滅茶苦茶考えるわけである。

犯罪被害者になる前は、このまま温かい家庭で子どもを育てて愛している旦那さんと一緒に暮らして、老いて死んでいくんだろうな。あの時すてた、キャリアも捨ててよかったなと思うんだろうなと。
しかし、意味不明な見ず知らずの人間に命を召し上げられそうになったら、
そのなんでもない幸福があまりに眩しくみえるのだ。

何でもないようなことが幸だったと思う、何でもない夜の事、二度とは戻れない夜。

と言う言葉に凝縮されていて、今私は「生きてるだけでいいじゃん」と思っている。それ以上にあるのだろうかと。

「生きる意味というのは生きること」

だと私は今、思っている。
そんなに深い意味があって、親も私を生んでいないと思うのだ。
単純に種の保存と言う本能に従って、社会の在り方に従ったに過ぎず、
有形的な暴力、精神的虐待、教育的虐待に関しても親となった今は
「このおじさんは、当時の私にはとてつもない巨塔に見えただけで、
どこにでもいる単なるおじさんやん」と思った時、すごくかわいそうな人だなとしか思えなかった。  
母親は10か月の時に私を捨てて出て言ったけれども、そもそも母親だから子供が好きで命と変えても惜しくないと思うステレオタイプな世の中がおかしくて、「あ、私は子どもが嫌いだわ」と思って置いて出て行ってしまうこともあるだろうよと思う。
本当にちょっと思想が狂ってる人同士が子供を作っちゃって、でも生まれてしまったからなんかしら利用しようと考えて、社会的地位を子どもに世襲させようと、ぎっちり週6習い事をさせて、
模試が下がれば「こんなんじゃ、人の上に立てないぞ」と殴ってみたというだけの話なんだろうと思う。
でも時々思うことはあって、親の職業に全く関心がない人間に無理に教育を押し付けると、確実に「フリーターになろう」とか思ってしまう反発がある。高校の三者面談で「〇〇さんは、どこを志望しますか」と聞かれた時、
「究極のフリーターになる」と私は答えた、父は「・・・究極のフリーター・・・」と驚くほどの教育費を親に使わせておいて、
18歳で「これ、私がやりたいことじゃないわ」と家を出て今日に至るんだけれども。それ自体が、育て方のミスであるとやっと父は理解した様だった。確かに、親の言うとおりに人生を歩んでいたら今頃は勝ち組になっていたと思う。しかしながら、私は親じゃないし親の狭い視野で世界を眺めて、
「うん!これが良い人生だ!」はちょっとおかしいよねと。

あとは、親がもっと年老いて仮に寝たきりになったら
トラウマ返しをするだけの作業である。
親だから、尊敬されるとかありがたいといわれるなんて
馬鹿の壁すら超えられなかったおじさんの戯言である。


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