祖父母についてのエトセトラ

父方も母方も、祖父母の家が都心にあった。実際は世田谷区と大田区なので都心とまでは言えないかもしれない。それでも、行きに中央自動車道を上る時は、区部のビル群に東京の大きさを感じ、心を躍らせていた。僕にとってビル群は「都心」の象徴だった。

車で一時間程度で行き来できるので、小さな頃は定期的に父方の祖父母の家を訪れていた。父親の仕事柄、比較的休みを取りやすい家庭だったので、その機会は頻繁にあった。
彼らにとって、僕は初孫にあたる。確かに、僕は祖父母に可愛がられていた。当時の家のリビングの梁には、僕の身長の記録が刻まれていたし、壁には僕が製作したちゃちな粘土細工やら絵やらが飾られていた。あの頃、家で適当に作ったモノがなぜ飾られていたのか理解できなかった。あれはまさしく愛情の証だったのだろう。

小一か小二の冬に、祖母が亡くなった。
寝る前に、よく「人は死んだらどうなるの?」「宇宙のその先っぽってどうなってるの?」と答えのない問いを両親に問うて困らせていた僕は、初めて身近な人の死に直面した。
母からそれを報された時のことは克明に覚えている。12月にしては暖かい日の昼下がりだった。妹と共にリビングのソファに呼び寄せられ、唐突に絵本を読み聞かされたのだ。動物の輪廻転生を題材にした本だった。幼い僕は、それが何を暗示しているかも分からずに所在無さげに聞き流していた。だいたい、小学生にもなって絵本を読み聞かせるなんて僕を舐めているのか。そんなことを考えていた。
一通り本を読み終わると、母はひと呼吸置き、テーブルに本を置いてこちらに向き直った。
「ばあばがね、亡くなったの。」
ティッシュ箱から何枚もティッシュを取り出して啜り泣く母。ぽかんとしながらも何だか大変なことが起きたぞ、と泣き出す幼い兄妹。絡まった糸を解くように、懸命に理解しようとした。でも、その小さな脳みそで理解するには、あの一文に込められた情報量は多すぎた。
え?亡くなったってことは死んだっていうこと?死んじゃったらもう会えないの?なんで?前に会った時は元気だったじゃん。もう話せないの?どうして…?
ばあばがね、亡くなったの。ばあばがね、亡くなったの。ばあばがね、亡くなったの。
頭の中でリフレインして、オーバーヒートしそうになる。溢れた感情は全て涙に変えて、長いこと泣いていた。

葬式の日、親戚一同が会す中で、僕たち兄妹は最年少だった。黒づくめの大人たちと線香の臭いに非日常を感じながら、葬式の始まりを待った。
本堂に入ると、金ピカのでっかい化け物がこちらを向いて座っていて、祖母の写真や白い箱が並べられていた。訳も分からず椅子に座ると、背筋がピンと張り詰めた。誰に言われた訳でもないのに、雰囲気がそうさせる。
しばらくすると、紫色の妖しげに光る服を着たおじさんが入ってきた。一礼ののち、読経が始まる。聞いたことのない旋律に、僕は畏怖を感じた。気の抜けたような木魚の音でさえ、葬式の間は恐ろしく感じる。
とんでもなく長い時間が経ったように感じた。途中、焼香に立ったりしたがあれは楽しかった。みんなと同じ儀式を一緒に行うことで、少し大人になったような気がした。式の最後に、紫のおじさんから棺に花を手向けるよう促された。遺体を見るのが怖かった僕は、涙を堪えながらその足元に生花を誂えた。叔母に「ばあばはあなたのことをすごい可愛がってたからね、お顔の方にお花を手向けてあげてね」と言われ、僕は生花を受け取って対面へ向かった。人波をかき分けると、白装束に身を包んだ祖母が横たわっていた。闘病で痩せ細った遺体は、死化粧と生花も相まってこの世のものとは思えなかった。「これが死ぬってことなのか」と急に実感が湧いた僕は胸を打たれて、花を手向けて口を真一文字に結んだ。
釘打ちが済んで出棺の時になる。
「これからどうなるの?」と母に尋ねると、
「ご遺体を焼きに行くのよ」と返される。焼くなんて極悪非道ではないか。また怖くなってきた僕は、出棺をやめてもらえないかと尋ねた。首を横に振られて、僕は再び泣き出した。本堂の外から吹き荒ぶ12月の北風は、その感情の高ぶりを表しているようだった。

「ほら、起きて。」
泣き疲れた僕は、火葬場へ向かうバスの中で寝てしまったようだった。さっきの部屋の紫のおじさんの旋律も、遺体も、死すらも、夢だったらいいのにと思った。
「何するの?」
「ばあばを焼いてもらいに行くのよ」
現実に引き戻される。いくら火葬を経て魂が天国に行くと説明されても、僕はうまく自分の中で咀嚼できなかった。
よく分からないままに棺は窯に入れられ、僕たちは休憩所に向かった。大人たちは一転して穏やかな顔で寿司を摘んでいる。僕も寿司は好きだったので、ばくばく頬張った。葬式のモヤモヤをかき消すように。それでも、今、たった今、祖母がどうなっているのかという胸騒ぎは頭の片隅から消えなかった。
「焼き上がりです。」
スタッフの呼びかけに応えて、参列者は前室へと戻った。母に何をするのか問うと、箸を使って骨を骨壷へ移す儀式だという。なるほど世の中には知らないことばかりだ。母の横に並び、順番を待つ。大人たちは慣れた手つきで骨を移している。大きくなるまでに、何度葬式を経験するのだろう。この式場にいる大人たちは、遅かれ早かれ僕より死ぬのが早い。そう思うと、悲しくて仕方がない。
いざ台車を目の前にすると、この白い骨たちは果たして祖母を構成していたものなのかと、輪をかけて悲しくなってくる。亡くなっていたとはいえ、寺で見た時は原型を留めていたのに。ともすれば喋り出してくれるのではと思えたのに。今となっては、カラカラ、と乾いた音を立てる無機物でしかない。
箸で骨を掴んで、骨壷へ移す。骨壷の中は真っ暗で、人は死んだらこんな世界に行くのかな、と考えた。骨を押し込むと、ガサ、という音がした。こんな狭い壺に押し込められて祖母は可哀想だ。でも、僕もその責任の一端を担っているんだ。僕は、その日いちばんの涙を流した。

祖父は多趣味な人だった。
切り絵はかなりの腕前だし、定期的に川釣りに出掛ける。庭いじりはプロ級で、桜やら盆栽やら柚子やらの接ぎ木は魔術師のようだった。庭のみかんの木はかなりの大きさで、毎年収穫させてくれた。
よく、戦争の話になると、フィリピンに出征していた頃の話を聞かせてくれた。「フィリッピン」「バングラデッシュ」と、アクセントの位置が変だなと思いながら聞いていた。

僕が将棋を覚え始めたのも、祖父の影響だった。祖父は居飛車党で、お世辞にもそこまで強い訳ではなかった。初めは六枚落ちにしてもらっていたが、年を経るにつれ、僕と祖父は互角に戦えるようになった。
僕も原始棒銀・腰掛け銀×矢倉囲いを駆使する居飛車党になった。必然的に、二人の対局の戦型は相居飛車になる。相居飛車は激戦だ。序盤の駒組を失敗すると、すぐ命取りになる。
終局を迎えて「負けました」と言うと、祖父は王将に手の甲を当て、「冷たい」と笑う。
死体は冷たいものだ、というブラックジョークなのだが、小学生の僕はまだその冷たさを知らない。無邪気に「なんで冷たいの?」と言うと、「王様が殺されたら冷たくなるんだよ」と教えてくれた。元々消防士だったこともあり、命について敏感な人だったのだろう。子どもは、経験を以てひとつひとつ知識を得ていく。

僕が小六の時、祖父は亡くなった。奇しくも、祖母の命日と一週間違いの、12月の寒い日だった。
中学受験の直前だったこともあり、僕に心配をかけまいとしていたのだろう。両親は、僕に祖父の死の瞬間までそれを知らせなかった。でも、僕はなんとなくその時が近いことを勘づいていた。数年前の冬のように、父が病院にお見舞いに向かう頻度が増えていたし、書斎からは父が電話の向こう側に話す切羽詰まった声がしきりに聞こえていた。

数年前と同じ寺に向かう。数年前と同じ格好で、数年前と同じ悲しさで、数年前と同じ車に乗って、数年前と同じ本堂に向かう。
唯一、紫のおじさんは若返っていた。息子が住職の修行から帰ってきたとかなんとかで、親子二人体制で稼働しているらしい。おじさんより少し高いその声は、数年前と同じ旋律を奏でていた。
最後に生花を納める時間になった。僕は、顔をひと目見ようと棺へ向かった。骨張っていた身体はかなり萎びていて、頭髪も殆ど抜け落ちていた。白装束に身を包んだ祖父は、安らかに眠っていた。思えば、僕は病室に見舞いに行っていない。元気な時から変わり果てたその姿は、落涙するに充分なものだった。
祖父の腕を見て、ひとつ思い出した。「王様が殺されたら冷たくなるんだよ」と笑っていたこの腕。本当に、人は死ぬと冷たくなるんだろうか?一度は離れた棺にまた近づき、花で覆われた額を顕にする。祖父が駒にしていたのと同じように、僕は右手の甲を祖父の額に当てる。
冷たい。
ひやりとした感覚が、肌を伝い涙腺を刺激する。
本当に冷たいんだ。
子どもは、経験を以てひとつひとつ知識を得ていく。

僕は、遺品として将棋の本を譲り受けた。中原誠、大山康晴、米長邦雄といった過去の名人たちの本は、僕の血となり肉となった。僕が一瞬将棋部に籍を置いたのは、祖父への追悼の意があったのかもしれない。

僕の死生観は、父方の祖父母の死によって形成された。死んでしまったら人は冷たくなるのだ。何か思い出として遺すには、生きているうちに成すしかない。
大学に入ってから、母方の祖父母の家に一人で訪れる回数が増えた。それまでは年二回、ホテルで会食をする程度だったが、今では月一で祖父母の家を訪れている。
家の近くで昼飯を食べ、家で祖母の友達と一緒に雀卓を囲む。海外を飛び回っていた爺婆の話は、ここには書けないような偏見まみれで面白い。

先日、祖父母の親族合わせて10人くらいで会食の機会があった。今年に入ってドンジャラの呼び出しがなかったのでどうしたものかと気を揉んでいたが、とりあえず全員集まっていたので安心する。
90分のビュッフェも中盤に差し掛かり、何とは無しに祖父に、最近元気なんすか、と問いかける。
「いやぁこないだ死にかけてね」
と返ってくる。結局何ともなかったんだけどね、と付け加えられるが、とりあえず詳細を尋ねる。
「脳から出血してさ、ぶっ倒れたのよ」
「本当よ、あんた。朝見つけて死んでるのかと思ったわよ」
祖母が笑い飛ばす。
「脳には硬膜、くも膜、軟膜ってあってさ。その硬膜の外側がプッツンいってて。中だったら今頃死んでたねきっと。」
思いの外、空気が重くなる。その場を収めるのはたぶん僕の役回りなので、え、じゃあ問題なかったんですか?と聞く。全然大丈夫だね、不死身じゃないですか〜とやり取りをするも、僕と祖父母しか笑っていない。
祖母が、でもおかしくなったかと思ったわよ、と助け舟を出す。
「だって私、医者に、もし障害が残るようでしたら殺してもらって構いませんので、って言ったのよ!そしたらピンピンして帰ってきちゃって。」
一同が破顔する。とりあえず良かった。そう思うと同時に、やっぱり定期的に祖父母の家を訪れようと思った。
安心の為に追記しておくと、祖父はもう文字通りピンピンしており、最近はYouTubeにハマっているそうだ。思考が若くて何よりだ。

いま住んでいる家は、父方の祖父母の家をリフォームしたものだ。祖父母の仏壇もある。
僕は、久々にお線香を上げようと思った。特に何も報告することはないけれど。

#コラム #エッセイ #日記 #小説 #祖父 #祖母 #死 #生


ありがとうございます!!😂😂