ハイスクール・リターン

思い出は、年を経るごとに美化される。
先日、免許更新の帰りに調布駅に降り立った。いつもの如くラーメン屋をチェックすると、候補に一件の店が見つかった。
「たけちゃんにぼしらーめん 調布店」
調布以外に店がある訳でもないのに、調布店と土地を名前に冠した老舗店。店の外観は何の変哲もない雑居ビルの一階だ。しかし、中に入ってみると、ひとつの記憶が呼び起こされた。

「なぁ、こんどサッカー場借りてサッカーしようぜ。フットサルよりでけえ規模でさぁ」
サッカー部の数人に誘われ、僕は遠路はるばる八王子から赤羽に向かった。到着してコンコースを抜けると、一面人工芝張りの大サッカー場が姿を現した。
「でっけえなぁ」
「やっぱり高校のコートもこれくらい欲しいよな」
ウチは無理だろ、と軽口を叩いて運動着に着替える。野球用のユニホームしか持っていない僕たち数人は、相談するでもなく、自然と全員が白い練習着を選んでいた。

入念に準備運動を繰り返す。
サッカー部連中のふくらはぎは厚みがある。前後半合計80分の運動に堪えられるよう鍛えられた脚は、軟式野球部の僕たちとは質が違う。
イチニーサンシ、ごーろくしちはち
イッチッサッシー、ごーろっくしっちはっち
掛け声も部活によって様々だ。部活動は高校生活の多くを占める。中高一貫校である僕たちは、六年間も同じ部活の友達と過ごすことになる。高校を卒業する頃には、自然と、自分という人格と部活動の雰囲気の浸透圧は均一になっていく。
その中で、僕の横の陸上部の樋口という男は黙々と準備運動に励んでいた。樋口は、実家が金持ちで、それを元手に、高校生にして新作スマホの転売で不労所得を得ている、筋骨隆々の大男だ。
「…なあ」
「ん〜、どうしたの〜」
樋口はオネエみたいな言葉遣いをする。仕草も何だか女子っぽい。大男に似合わないその所作はギャップが凄い。
「お前、相変わらずすげえ筋肉してんな」
「鍛えてるからね〜」
樋口のふくらはぎは、野球部やサッカー部のそれとは似ても似つかない代物だった。もちろん、陸上部のそれでもない。
すげえなコノヤロ、と言いながら僕は樋口に襲いかかる。いや〜ん、という音に似合わないパワーが僕を押し返す。じゃれているうちに、周りは柔軟運動に移っていた。それに気づいて、僕たちはふたりして太ももの裏を伸ばし始めた。
僕たちは、クラスも部活も、一度も同じになったことがない。でも、なぜかウマが合った。
「きょう、俺も京王線で帰るわ」
「お、オッケ〜」
「いや、もっと嬉しがれよ」
「そこまでじゃないでしょ〜」

空はいつの間に雲が濃くなっていた。休憩を経て後半に差し掛かった頃には、ゲリラ豪雨が僕たちを襲った。
「いやぁ、キツいなこの天気」
「ツイてねー」
口々に愚痴をこぼす僕たちを尻目に、サッカー部は勢いを止めない。普段からこの程度の雨はものともせず練習しているから、今日も別に止めないよ。そう背中が語っている。
練習着の繊維が、音を立てずに雨粒を吸収する。水を含んだ練習着は、僕の体温を簡単に奪っていく。スライディングをすれば、トレシューの中やソックスの裏地まで水浸しになる。使い古したトレーニングシューズは、靴底のソールが削れて、カパカパと不愉快な音を立てる。雨が入り込んでくる度に、早く買い替えなければと思う。
まあいっか。とりあえずサッカーできれば。
雨と雑念を振り払うように、僕らはコートを駆け回った。

めっちゃ寒い。
最後まで雨止まなかったなー、と言い合いながら私服に着替える。むしろ、雨は弱まるどころか勢いを増していき、さすがにサッカーどころではなくなった。身体の芯まで冷え切った僕たちは、ほうぼうの体で解散していった。
僕と樋口は、新宿から京王線に乗り込んだ。普段は中央線で通っているので、京王線に乗るのも久しぶりだ。
「なぁ、温かいもん食わねぇ?」
「いいね〜」
「お前ん家の近く、何かねぇの?」
「ん〜、あるよ〜」
「そこにしよう」

僕たちは調布で降り、樋口の向かうままに駅近のラーメン屋へ向かった。冬でもないのに、身体が勝手に震え出す。店の名前は覚えていない。とりあえず、壁一面に芸能人のサインが飾られていた。券売機で急いでラーメンを買い、テーブル席に座る。室内でも震えは止まらない。
「お待ちどうさま」
目の前に湯気が立ったラーメンが置かれる。おもむろに麺を啜る。冷え切った身体に血が通っていくのが分かる。かじかんだ指先も、湯気に暖められて徐々に思い通りに動くようになる。
ズルズル、ズルズルと一心不乱に頬張った。その味を細かくは覚えていない。でも、人生で食べたラーメンの中でいちばん美味しかった。それだけは記憶の彼方に残っている。

店から出て、相変わらず小雨がパラつく調布駅前。僕と樋口はそこで別れ、僕は再び京王線に乗り込む。傘を持っていない僕は、暖まった身体を冷やさないように、急いで駅舎へと向かった。
美味しかった。またこの店に来よう。
そう心に誓って、僕は行きよりも重くなったエナメルバッグを肩に担いだ。

「お待ちどうさま」
カウンター席に座った僕の前に、一杯のラーメンが提供される。
こんなラーメンだったっけな。
ビジュアルは特別尖っている点があるわけでもなく、いわゆる丁寧な町中華のラーメンだ。一口、スープを啜る。味が少しボヤけた鶏出汁の醤油味。麺も美味しいのだが、特に特筆するほどではないインパクト。チャーシューは厚みがあって美味しいのだが、以前の記憶では、もっとスープに感動したはずだった。

思い出は、年を経るごとに美化される。それが極限状態なら尚更だ。
夕方の調布駅は、帰宅時であろう高校生たちで賑わっていた。今日は晴れている。五月にしては暑いくらいだ。
あの時、極限状態で食べた一杯は、もう味わえない。
僕は電車に乗り、空いた座席に座って、胸に携えたトートバッグを脚の上に置いた。あの時よりも随分小さくなった荷物が、やけに軽く感じる。中に無造作に詰め込まれた折り畳み傘の柄の部分が、太ももに当たって少し痛い。

そういえば、ここ数年、樋口にも会っていない。たまには連絡してみようか。もし、樋口に会って
「なぁ、樋口ぃ、俺たち、終わっちまったのかな?」
って言ったら、あいつは何て言うんだろう。
きっと、バカ野郎、まだ始まっちゃいねえよ〜なんて粋な返しはしてこないだろう。
そう思って、僕は開きかけたLINEを閉じた。
たぶん、また同窓会とかでいずれ会うだろう。チャンピオンにも、親分にもなっていなくても、きっと昨日まで一緒にいたみたいに、自然体で話すのだろう。高校の友達なんて、そんなものだ。

僕は、たまには、また「たけちゃんにぼしらーめん」を訪れようと思った。

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