ちゃんとしないで生きる

人間は群れをなして生きる。
群れでいた方が生き残る確率が高かったから。

群れで生きるにはそれなりのルールがあった方がいい。
人同士の衝突を減らせるから。

家族という小社会に始まり、保育園、小学校などの教育機関、部活動、社会人、国などなど、私たちは色々な社会に属しながら生きている。


では、生きてくうえでルールに従わないとどうなるだろう?

人と衝突する機会が増えるだろうし、外れものにされるかもしれない。
ルールを守るのは自分の身を護るためのものだと言える。


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◆果たして「ちゃんと生きる人間」は現代に即しているのだろうか?

無理やり群れをなさなくても、一人で自由に生きられる範囲が広がった現代ではルールに従う「ちゃんとした人間」である必要はどの程度あるのだろうか。


自由が認められ、変化が求められている世界では、「ちゃんとした人間」であるよりも、少しずれている方が良いのではないか。

何より、「ちゃんとした人間」から脱却した方が、私たちは自分の身を護ることができるんじゃないだろうか。


「ちゃんとした人間」を目標にすると、そうならない自分に直面した時に心が折れる。人間得手不得手があるし、体調や気分が優れず「ちゃんと」ルールに従えないときも出てくる。

ちゃんとした人間はよく言えばルールに従える人間で、悪く言えば常識から外れられない人間だ。変化が求められる現代では、常識から離れた場所にも目を向けた方が良い。常識がいつ常識でなくなるか分からないからだ。今のうちからリスクヘッジをすべきだ。


◆でも現代はそこまで「ちゃんとしない人間」に寛容じゃない

いくら生き方の幅が広くなったとはいえ、まだまだルールから外れる「ちゃんとしないで生き」てる人に寛容になれない人はいる。

変化を怖がっているのと、自分が嫌な思いをしながら耐えていたルールが実は意味がなかったと気づくのが嫌なのだ。

法律で定められていないなら、ちゃんと守らなくても良いはずなのに。


◆それでもあえて「ちゃんとしない」で生きてみる

人の顔色をうかがうのは、生きるために必要な術だったからだ。

でも、人の顔色を窺うリソースがあるならば、他に使った方が有益だ。これは断言できる。

残念ながら顔色を窺った相手は私を助けてはくれないから。


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