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Day1.16:14 SHIGURE——シグレ↓——

仁和寺にある法師——
『徒然草』兼好法師

いつも人に言うとき、ショウレイインだったか、ショウインレンだったか、よく分からなくなる。混乱していると助け舟を出すどころか、いや、セイレイインじゃないのか、としまいにはふりだしに戻ろうとする自分が現れ、もう脳内でこんな処理をしていることじたいが億劫に感じられてくる——そんなあまりにも不毛な懐疑、それじたいに嫌気がさした結果、僕はいつしかそこへ行きたいんだと人に話すことすらしなくなっていった。

けれど、やっぱり行きたかったのだ。

青蓮院門跡——に。

やっと、言うことができた。

↑少なくとも前回京都を訪れたときからの、これは僕にとっての「年ごろ思いつること」だった。

しかし、ここで「果たしはべりぬ」とは言えないところが仁和寺にある法師ではなく、僕の、まさしく数奇なる現実というものだろう。

↑にも書いているが、僕ははじめ、ここに小堀遠州が手がけた庭があるときいて、見たいと思った。ところがいま実際に訪れてみて、結論から言って僕は遠州作の「霧島の庭」を「見る」ことはできなかった。

意気揚々と撮った写真

こんなのが、なんの言い訳にもならないことは承知している。
だが聞いてくれ。

↑この立札を見たら、

「↑この先に霧島の庭があります」と言っているように取れないだろうか。

……。

…そう、僕はまさにそう取ったのだ。
いままさに自分の立っているその場所が霧島の庭だということにも気付かずに。

「ほう、いよいよこの先か…」

いつまで経ってもその先が現れないことをいぶかしく思いながら、僕は霧島の庭を走破していた。完全にGAME OVERである。

庭を背に立ち尽くす。

僕の頭上を風が舞い、言の葉が踊った。

霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き
芭蕉

虚脱感につつまれて呆然としていた僕の頭を、ひゅっと流れ星のように駆けぬけたのは芭蕉だった。

いや、たしかに「霧」島ではあるけどさ…

その場で思い浮かんだ松尾芭蕉の俳句を改訂して、いまの自分の心と現実によみかえる。僕にはもはやそんな体力はなく、ただただオリジナルの芭蕉の句がこぼれ落ちるように胸から溢れた。

仁和寺にある法師は、山の上(↑)に本殿を構える石清水八幡宮の全体像を知らず、自分が見た麓の寺社だけが石清水八幡宮だと思い込んだ。

松尾芭蕉は箱根越えで富士山(🗻)が見えるスポットに差し掛かったとき、しぐれにやられて富士山が見えず、そこでひと言「面白い」。↑の句を生み出した。

僕はといえば、最初に境内図を眺めていたにもかかわらず、念願の霧島の庭を華麗に歩いてスルー。挙げ句にそこで「面白え」とつぶやく機転もなく、ふつうに悔しがっていた。なんたる凡夫…

「まあ、また今度来ればいっか」

そんな楽観的な思考回路は凡夫たるもの唯一の取り柄ともいうべきだ。しかし、そこに弱冠9歳の親鸞が突如としてあらわれ、トドメを刺す↓

また「↑」か…

次があるなんて思うなよ、ということらしい。

なんなんだ今日は…

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