「自分は何者か?」なんてまやかしはご勘弁。なんて言ってたら色々と湧いてきた。
こんにちは。
激動の秋を経て、ついに12月になりました。暦的にもさすがに冬到来。
激動というのは所属する団体の危機に関してなのですが、これに関しては一旦さておくとします。(おかげさまで少し落ち着きました。)
今日は、ここ数年悩まされてきた「自分は何者か?」「自分のMission」そんな問いに対して少し答えていこうと思います。
ひねくれたここ1〜2年。
まず、まあ小見出し通り随分と自分もひねくれました。
21〜23歳は爛々の目をしてこんな風に考えていました。
我ながら可愛い。
ところがここ1〜2年の僕は、
こんな風に考えるようになりました。
なので、ミッションとかビジョンとか、それに近しい話をしているのを見ると不思議と体や心が抵抗するようになってたと思います。
SNSから入ってくる情報も、自分にとって心地よくない刺激になるものは避けるようになっていました。
だってみんな何者か語ってるんだもん。
つい自分も見つけたくなっちゃう。
実際見つけようと探っても、ふとした時に空虚になる自分がいて、そこに直面する怖さを感じてたんですよねえ。
(20〜23歳は、今より随分と怖いもの知らずだったんだなあ。)
つまり、何者でもない
とはいえ、CMCを運営していると「生き方」「どうありたいか?」「何者か?」みたいな話はちょくちょく考えます。
なのでこの手の話をするときには、意識して「何者でもない自分」に立ち返るようにしています。
「何者でもない」と素直に言えると、不思議と自分にあるものに目が向くようになりました。
あるものっていうのは、強みとかこれまでのつながりとか、これまでやってきたこととか、好きなこととか。もちろん具体的に持っているものもそうかもしれません。
それが結果的に、周りから見ると自分を何者かたらしめてくれるものになっているのかもしれない、とちょっとだけ最近感じ始めました。
だから、何者かには、なろうとしなくていい。
きっと何者かには勝手になっているんだろうし、なった頃にはそれ自体に興味を失っている気もする。
おじいさんおばあさんとか見ていると、そんな気がする。
まあそう言いつつ、なんかそれっぽくなったらそれはそれで気持ちいんだろうなって思ってますけどね。
だから興味を失うまではウンタラカンタラこんなこと考えていようと思います。
では、今の自分にあるものは?
何者でなかったとしても、自分にあるものがあることは確かです。
人と話すのが好き、人前で話すとなんかそれっぽい、好きになる力が強い、なんやかんや真面目に向き合う、反省する、家族、親族、地域、友達、体、脳みそ、、。
いーっぱいあります。
たくさんある。
だから、どれ使ったら関わってくれる人は喜んでくれるかなって考えて、自分にとっても嬉しいことを選択していこうと思います。
だって生きるって選択の連続とも言えるもの。
何者でなくても、どうせ選択はして生きるんだから、せっかくなら自分も周りも喜ぶ選択をしたい。
そんなこんなで、
どうせ変わるだろうと思いながらも、
今の僕がやりたいこと、ありたい姿として、
自分にあるものをなるべくたくさん使って、関わる人みんなと笑って働く
そんなことを持ちながら日々過ごしてみようと思います。
働くってのがミソです。僕は今働くのが楽しい。
そして、広田の人は「働く」ことを「かせぐ」って言います。
うーむ。確かにその通りとも言える。
ちょっとドキドキするけど、経済的にももう少し自由の幅を広げたい。
ちゃんとかせがねば〜。
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