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【感想】泉谷閑示「仕事なんか生きがいにするな」(2017)

仕事を生きがいにして良い、けど、きみの心と体は喜んでるかい?

と、カヲル君風の石田ボイスで迫られたい私です。最近お年頃なのか、「自分、このままでええんか?」という中年期クライシスをもよおします。かのユング先生も

40歳前後を「人生の正午」と呼び(中略)午後は自己の内的欲求や本来の自分の姿を見出し実現させていく

中年期の自我同一性

とおっしゃってますので、まさに第2ステージ、というか、中二病の再来です。自己分析とか、うぉぉぉ今更はずかしぃぃぃって思ってしまいますが、考え方も環境もだいぶ変わりました。だから自己分析もリニューアル…て、今は何て言うんでしたっけ、あれ、えーと…(検索検索)アップデート? とまぁ外部記憶装置に頼ってもこの調子なので、やはりイケイケドンドンだったあの頃のままでは歯車が嚙み合わなくなるわけです。で、図書館でこの本を手に取りました。

0.著者について

著者は精神科医で、新型うつやその社会背景を、漱石など名文を多用して綴っています。もっと図解とか入れてくれれば分かりやすいのに…と思ってしまうのですが、著者はフランスへ音楽留学した芸術肌。解決方法も芸術が多く、読みにくい箇所もありました…同じように音楽の趣味などがある方なら読みやすいやもしれやせん。しかし響く言葉も多々あり、自分なりに嚙み砕いていきたいと思います。

1.労働教:働かざるもの食うべからず

ツヨシしっかりしなさい、というアニメでお姉さんがよく言ってたような…子供の頃よく聞きました。「アリとキリギリス」に表される、勤勉労働を称える社会。でも今はそこまで働かんでいいやん、ハングリーモチベーションの時代は終わったで~と。働きづめて、破壊的なストレス発散スパイラルに陥ってへんか~と。

「労働」から完全に離れてしまうことは、人間から活力と生命を奪い去ってしまうことになる。これは、生き物としての一つの真実です。しかしだからと言って、「労働」によってほとんどが占められるような生活もまた、決して人間的な生活とは呼べないでしょう。

p91- 「働くこと」への違和感

社会の役に立つ、というのも人間らしい感覚だけど、一方で子供の頃から植え付けられた価値観でもある。一遍そこをとっぱらって、自分の心が求めているものが何か感知して、人生の軌道修正したほうがええんちゃう? 「積み上げたものぶっ壊して~身に付けたもの取っ払って~止め処ない血と汗で乾いた脳を潤せ~」という全力少年なアドバイスです。そこで著者は自分探しにも触れています。

2.自分探しダセェの刷り込み

「本当の自分」なんてどこにもありはしない、そんなことを考えている暇があったら何でもいいから働け、といった乱暴な議論(中略)つまり「本当の自分」が有るのか無いのかという議論は、論じている人が(中略)「本当の自分」について未経験なので「そのようなものはあるはずがない」という結論付けが行われやすい

p94ー「本当の自分」は果たしてあるのか?

つまり、本当の自分はありますよ、というお答えです。
ワンピース? そんなもんただの伝説だろ、本当にあるわけないやん、という世論をぶっとばして「海賊王に、俺はなる!!!!!!!!!!!」
という気概が必要なのでしょう。
かの夏目漱石先生が晩年、学習院大学の講演で、自分はやっと本当の自分を見つけられた、君達もきっと見つけて、生涯の安心と自信を得られるでしょう、と語ったそうです(夏目漱石著「私の個人主義」)。
よし、見つけよう! 本当の自分!(今月のスローガン)

3.労働と仕事の違い

本当の自分(自我)を見つけることで、生きる「意味」(生きがい)を感知できるようになるそうです。じゃあどうやって見つけるの? という中で、著者は「労働」「仕事」を分けて定義しています。

  • 労働とは・・・生命や生活の維持のため、必要の迫られる作業

  • 仕事とは・・・永続性のある何か、例えば道具や作品を生み出す行為

産業革命後、多くの仕事が細分化されたことで、労働と化してしまった。労働とは、人間を家畜化する。るろうに剣心で「ただ生きるだけなら家畜同然。誇りも尊厳も必要ない」という台詞、印象深かった、断然斎藤一推しになった中学の私。まぁ主人公が究極のニートでしたね。
家畜化すると、本当の自分(心=身体を中心とした在り方)を見失う。でも生きるために理性(頭)で労働する必要もあるよね、そんなときは

「労働」(略)をいかに自分が「仕事」と呼べるものに近づけていけるかを工夫してみるのもよいでしょう。つまり「労働」において見失いがちな「質」というものを、自身の「心=身体」の関与によって回復させる

P119「仕事探し」=「自分探し」の幻想を捨てよ

最近病院で思うんですが、ただ薬を処方するだけのマシーンになってる先生っていません? 看護師さんのほうがよっぽと人間だなぁ、と思ったり。病院も診療科が細分化されて、毎回同じような処方、しかもネットで評価されるような時代になってしまったからか、もう何年も通っているのに同じことしか言わないロボ、います(^_-)-☆。まさに質より量をこなす典型。勿論血の通ったお医者さんもいます、昔はそれが多かったと思うんです…まぁヤブも減ってるんでしょうが(^_-)-☆。医者のような高等職ほど、社会のために役立つとかの価値観に支配され、労働中は心を失いやすいのかな、とか思いました。
そんじゃあどうやって質を上げるの? という具体例は本章では書かれていないのです(ガビーン!)。ですがダメな例として量をとってしまう「受動的人間」というフロムさんの講演が序盤に紹介されています。

人は自分の中の空虚を追い払うために物を詰めこむ。(中略)外観は情熱のようでも、実は外力に動かされている【能動】は、いかに大げさな身振りをしても、基本的には【受動】である。

人生と愛 エーリッヒ・フロム著

なぜ受動がアカンかと言うと、生きる「意味」は能動的に求めなければ得られないから。誰かが与えてくれる意味は、けして自分の意味にはならない。

☆休憩☆推し活は欲望なのか愛なのか

(ここで自分的にリラックスしたいので、自分語りします、すっ飛ばして下さい。)上記の受動について、Amazonレビューでこんなものが。

自発的にやっていると思っていた、いわゆる「推し活」も、受動的な側面があるというところが、特にはっとさせられました。(もちろん、これからも楽しみますが)。

2022年2月22日にレビューしたAmazonのお客様

痛バに詰められた缶バッチは、自分の空虚を埋めていたのだろうか…(いやまだ詰めたことはありません)。でも分かります、めちゃくちゃグッズ揃えたい時、あります…物欲の塊と化すというか。そういう消費社会という外側から注入された欲求で動くのは「受動」でしかないと書かれています。本当にこのガチャコンプしたかったの? 消費中毒になってるだけじゃない?と。しかしそうオタクに問うたなら「ええそうですとも! 制作会社の犬です!!」と答えるでしょう(笑)。これは社畜と似てると思うんです、本人が幸せなら、いいじゃん、と。そのために働いて消費する、そこに疑念がないならいいじゃない、いい投資家だよ、と。でも自分は、自分で「これも次回作のいい投資になっただろう」と納得させるときがあって、それはたぶん、心から楽しめてないんだろうな、と思ったのです。いまここで、心=身体が喜ぶ、というマインドフルネス的なキーワードが出るんですが、頭で過去や未来を考えちゃってるなぁと。
じゃあ受動でない、能動的な推し活ってなんだろう、と思ったとき、あさイチである方が「仕事で悩んだとき、推しならどうやるだろう、どう答えるだろう、と考えると、やる気が出ます」と言っていたのを思い出しました。うわー、これ中学の頃よくやってた(笑)でも最近やってなかった。考えてみると、昔好きだったキャラクターの性格って、自分の理想像でした。理想像のキャラになって今の問題を考える…これはいい推し活(?)では!?

にしても、最近はつい、グラフィックが綺麗とか、声がいいとか、「癒し」の要素を求めている気がします。疲れてるね、自分…。この「癒し」について、著者の別の著書「普通がいいという病」(2006)でこんな引用が。

人を救うということは、人を自立させることだと思う。「癒し」なんてどこにも自立がない。

横尾忠則「横尾流現代美術」より

安直に考えると、癒しというのは寛解、マイナスから一旦ゼロにしてくれるかもしれないけど、プラスにはならない。この本では、不幸な状態を癒しでリセットしても、不幸にくるまれた真相を得なければ何度でも不幸が降りかかる、と解説されています。癒しというぬるい沼から抜け出せないってかんじですかねぇ…しかしこの受動的な沼にいては、質的な生きがいは見えてこないよ、という事でしょうか…因みにこの「普通がいいという病」は図解も多く対話的で、同じ著者なのにずっと読みやすかったです!

4.「意味」を求めるベクトル=愛

いいかげん本筋に戻ります;第4章「私たちはどこに向かえばよいのか」に進んでくると、さらに分かりにくくなってきます。じゃあどうしたらええねん、というこの章で、芸術や愛というのが登場します。著者の解説だと

  • 欲望とは・・相手(対象)がこちらの思い通りになることを強要する気持ち。頭から生まれる。

  • 愛とは・・・相手(対象)が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ち。心から生まれる。

  • 芸術とは・・邪な世俗と対峙し、忘れ去られた自然の本性、「美」を力強く表現するもの。人間であるために「不可欠なもの」

自分の心に問いかける、自分とは何か、人生とは何か、世界とは何か、対象に潜む本質を探ったり味わうことが、愛。
愛の経験によって、生きることに「意味」を感じる瞬間がもたらされる。

みんなー、ついてこーい☆ by佐久間一行

愛の定義がね、なんか日本語は色々あるやん、アガペーだったりエロスだったり。だから一言「そこに愛はあるんか?」と言われても、なんだか迷っちゃいます。愛だと思って、大量に缶バッジを詰める行為がただの欲望で、推しはあなたに生きる意味を与えてくれないですよ、という…(´;ω;`)ウッ…。
この愛や欲望については、前述の「普通がいいという病」に詳しく書かれています。例えば

ボランティア活動というものは、生きがいを求めて行うべきものではありません。つまり、被災者という弱者を、助けるという名目で「欲望」の対象にしてはならない

泉谷閑示 「普通がいい」という病 p154

えぇぇぇボランティアって無償の愛っぽいのにぃぃ。むずっ。
しかし決して禁欲せよ、ではなく、欲望を大きく育てると愛になるそうです(by空海)。

欲望を突き詰めていくと、限界がきてしんどくなる
→本当は何がしたいのか考えるようになる
→何がしたいか分かり、本当の自分を実現する
→自己実現すると、自分という一人称が消える
→愛の行動をするようになる

あれっすね、悟り的なやつ。あとは芸術について書かれているんですが、ここはもう難しくてお手上げでした…。

5.頭をOFFして、日常を遊ぼう

何でもないように見える「日常」こそが、私たちが「生きる意味」を感じるための重要な鍵

p156 日常に「遊び」を取り戻す

終章では、じゃあ実際どうしたらええねん、という回答例として、日常に「遊び」を取り戻してみよう、とあります。例えば

スーパーに食材を買いに行くとき(略)献立など何も決めずに(略)目を引く食材があったら、それを買い物カゴに入れていく。その結果、カゴに入った食材を見て、「さて、この食材で何を作るか?」と(略)レシピを見たりせず、自分で試行錯誤しながら作ってみる

生きることを味わるために P173

その食材は、体にいいとか、コスパがいいとか、時短レシピとか、そういう頭の問題はすべて消すそうです。非常に効率が悪く、面倒な作業ですが、そうすることで、心=身体が元気になるそうです。これはなかなか難しい…絶対新作ポテチをカゴに入れてしまいそうだし、コレステロールが基準値越えの身としては、あれは脂質が…等考えてしまいます…(´;ω;`)ウッ…1週間に1度くらいやってみようかしら…

お気づきかと思いますがこの本、「仕事なんか生きがいにするな」だからといって「自分の欲望のまま好きなことをして生きろ」でもないのです。好きなゲームをしながら食べるポテチは最高ですが、その結果残るのは、なかなか落ちないお腹の脂肪と、腰痛、睡眠不足――家畜化した豚の完成です。こういう破壊的受動的な活動でなく、創造的能動的な活動をしよう、そうすれば本当の自分とか生きがいとか感じれるよ! でもそんな簡単にはたどり着けないよ! と受け取りました。

6.人間はアリだった

最後に「アリとキリギリス」に触れ、イソップ物語の「蟻」という寓話を引用しています。

現在の蟻は昔は人間でした。農業に専念しましたが、自分の労働の結果では満足しないで、他人のものにまで羨望の目を向け、始終隣人たちの果実を盗んでばかりいました。ゼウスは彼の欲張りにお腹立ちになって、その姿を蟻と呼ばれているこの動物にお変えになりました。しかし彼らはその姿を変えてもその気質は変えませんでした。というのは今日に至るまで彼は田畑を這い回って他人の小麦をかき集めて、自分のために蓄えるのですから。この話は、生まれつき悪い人々は非常にひどく懲らしめられても、その性格を変えない、ということを明らかにいています。

イソップ寓話集「蟻」

なかなかな皮肉です。考えてみると、イソップさんの生き方は、どちらかと言えばキリギリス的だったからでしょうか。著者はとにかく、過去の価値観にとらわれず、今を生きよう!とまとめています。fromアリtoキリギリス!

☆読み終えて☆

うわーめちゃ長文に💦 ともかく少しずつでも本当の自分、考えてみようと思いました。ポテチを食べ始めたとき、「いかん、質より量で満足しようとしている…!」と思い、1枚のポテチをゆっくり味わって終わらせる、質を感じるようにしたり…あとは、人の役に立つから有意義とか、そういう指標をリセットして、自分にとって有意義か考えてみたり…合ってるかわかりやせんが…少し、アプデきた気がしました。


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