忘れたことすら忘れていく悲しさの話。

随分と無理な体勢で寝ていたことに気づいたのは深夜三時だった。気づいたのは当然目覚めたからで、腕を枕にして寝ていたようですっかり右手が痺れている。痺れた腕を自然な方向に持っていき、そのまま痺れが治り再び眠りにつこうとしたが、思い直して起きることとする。

と、言うのも今は現実と夢の狭間にいるから、先ほどまで私は夢の中にいた。いや、今はこうして目が覚めているから、それを夢だと思い返せるのだが、とにかく少し前までの私はこことは違う世界で、その世界の中で思うままの行動をしていた。それが随分と印象深かったので、今こうしてその夢想世界を書き留めておこうと身体を起こした次第である。

ちょいと油断すると、先ほどまでの夢のことはすっかり頭から消えてしまう気がする。ましてや、二度寝などしたらこうして夢を見たことすら忘れてしまう。それは、全くもって無かったことになってしまう。もしも、それが無かったことになってしまったら、私の中の潜在意識の中で起きたであろうことも、全くもって存在しないことと同じである。

夢とは実際に無かったことであるのか。それとも、私さえ覚えていたらそれはあったことなのか。今まで生きてきて、幾つもの思い出を他人と共有してきたが、思い出とは不思議なもので、それが確かに存在していたことを証明する手立てはどこにもない。同じ体験をした友がいたとして、それを互いに語り合い懐かしむことは出来るのだけれども、それが確かに起こっていたことは、全く今となってはわからないのだ。それは、いくら映像や写真に残したとて同じである。確かにその時の記録は残るのだが、それは二度と追体験はできないことであるし、それを他人に伝えたところで、伝わるそれは全く別のものとなっている。起きたことはそこで完結していて、それが実際に起こったことでも、起こり得なかったことでも、今という瞬間には全く関係がないのである。

まぁこの話は置いといて。

先ほど見た夢のことを少し思い出してみる。私は何の躊躇もなく高校の教室にいた。と、言ってもそれは私が20年前に通っていた母校ではなかったと思われる。しかし、夢の中の私はそれを特別気にすることもなく、普通に学校生活を送っていた。もしかすると今の私が知らないだけで、夢の中の私は普通に今の私が知らない小学校や中学校に通い、その高校に入学していたのかも知れない。それは覚えてないからわからないし、覚えてないのだから確証はどこにもないのだけれども、ただ違和感なく私の知らないはずの教室にいた私は、それを受け入れるだけのバックボーンがあったのかも知れない。

とにかくそこで私は、現実世界でも知っている一人の女性と会話をしていた。その子は実際に私の幼馴染で、小学校から中学校までの同級生で、高校は別々のところに通っていた。そして、正確には覚えてないが、高校二年の頃に少しだけ我々は付き合っていた。

それは長年の恋が実ったとか、幼馴染だった二人がお互いの大切さに気付いたとかいうロマンチックなものではなく。高校で離れ離れになった後に、たまたま学校の帰り道で再会をして、一緒に帰るようになり、そのうちにお互い居心地が良くてなんとなく付き合ってみただけの関係だった。

特段に好いていたわけではないけど、もちろん嫌いではなかったし、中学の頃にはそれぞれに想う人もいたから、二人っきりになることはあまりなかった。でも、いつも同じグループで会話をして、全体の一部として同じ時間を共有してきた。

付き合いだしてみて、当時の我々はすぐに違和感に襲われた。別に嫌いではないし、むしろ好きの部類ではあるけれど、とにかく彼氏と彼女と言う関係となると逆に居心地が悪く感じられた。そんなこともあり、1ヶ月もすると我々はどちらからとかもなく別れようと言う話が出て、あっさりと別れることとなった。

付き合っている僅かな期間は、よく自転車を二人乗りして下校した。思い出といったらそれくらいである。自転車を漕ぐ私は、後ろに乗る彼女と会話をした。その時の光景はあまり思い出せないのだけれども、なんとなく彼女の声色が頭に残っている。会話はもちろん、その時の言葉も、どんな単語かすらも記憶にないけれど、なんとなく彼女の声色だけはハーモニーのように耳に残っている気がする。

夢の中で私はなぜか彼女をおぶって道を歩いていた。現実世界でもあまり女性を背負って歩いた記憶はないと思われる。いや、おそらくはないのではないか。それなのに、なぜか夢の中の私は彼女を背負い、なんの疑問もなく道を歩いていた。こうしてそのことを書いている最中にも、先ほど見た夢は朧げな記憶になっていくようで、今思い返してみても、その夢に色はあったのか、その彼女を背負う前に何があったのか、彼女と何を会話したのかは思い出せなくなっている。ただ、彼女を背負い、なぜか満たされたような気持ちで歩いていたことだけ確かな気がするのである。

こう書いてみると夢とはなんとも不思議である。実際に20年前に彼女と自転車に乗り走った夕暮れを私は覚えているような気がする。その時の景色も、その二人で帰るまでに至る経緯も、そして二人でした会話の内容などまるで記憶にないのだけれども、それでも確かに覚えている。これでは先ほど見た夢と同じではないか。私は本当に彼女と共に、その時、いやその瞬間に同じ時間を過ごしたのだろうか。益々わからなくなってくる。

意識がだいぶハッキリとしてきたので、もう少し彼女のことを思い出してみよう。彼女に最後に会ったのはもう5年ほど前である。もちろん、その日に何を話したかも全く記憶にはないのだけれども、我々は二人で酒を飲んだと思われる。それきり、本当にそれきり彼女とは連絡すらも取っていない。ただ新宿の歌舞伎町で待ち合わせをして、居酒屋に入り、昔話に花を咲かせたような気がする。

少し不謹慎を承知で考えてみる。もし、今すでに彼女がこの世からいなくなっていたら、私はこの思い出を誰とも確かめ合うことが出来ない。これもまた夢の中で見たことと全く変わらないのではないか。いや、もしくは彼女がやはり生きていたとして、私から20年前の帰り道の話題を出した時に、もし彼女がこのことを全くもって忘れていたとしたら、それもまた、私の夢の中と同じではないのか。それは仮に現実だったとしても、夢の話と大差はなく、私の解釈一つでなんとでも脚色できてしまうし、思い違いがあってもそれが事実のように思えてしまう。記憶に担保されている思い出とは、本当に正しいのだろうか。それは朧げであるが故に、自己解釈で補正されたり、自己弁護の為に無碍にされているのではないか。

ここでもう一つ疑問が出てくる。人は全くもって頭の中が無の状態であったら夢を見るのだろうか。そんなことはあり得ないし、考えるだけで徒労に終わるのだけれども、夢の中で起きることは実際に自分の頭にいつか記憶された事象ではないかと、私には思える。故に現実世界では初めて見るものに出会うことも多々あるが、夢の中で見るものは私の記憶の中に転がっている記憶の一部の組み合わせでできていて、それは私の中に既にあるものではないのか。

ここで、私はふと真理めいたことを思いついた。それは"人は忘れていく。いや、もっと怖いことに忘れたことすらも忘れていく"のである。

今私は眠気まなこを擦りながらこの駄文を意味もわからずに書いている。それは、もしこのまま眠ってしまったなら、私は今見た夢を見たことすら忘れてしまうからだ。

おそらく私の頭の中には、私が忘れたことすら忘れてしまった事象や現象や事柄が無辺際に転がっているのではないだろうか。そして、その記憶たちは繋がりをなくして、砕け散って、細切れのまま頭の中にラベリングもされずに浮遊しているのかも知れない。そういった流星のような細かい記憶たちは、確証という居場所を失い彷徨っているのではないか。そして、それがやがてぶつかり合って、全く予期せぬ夢となって私の前に現れるのかも知れない。

現実世界とはまだ起こり得ぬ未来と、すでに記憶と変わってしまった確証なき夢との接点であるのか。ただその点は常に捉えることは出来ない幻のようでもあって、我々はどの瞬間に置いても、それに触れることができないのではないか。

今は刻々と変わっていくという、擦り切れた的外れな解釈はなんと愚かだろう。生きている限り人間の記憶という過去もまた刻々と変わっていく。それ故にこの世界に確かなものなど何もないのである。盲信することでしか人は何かを信じ得ない。それは、過去という事実すらも変わっていくのだから、その変化に盲目的にならなければ信じるものの普遍性は保たれないのだ。

忘れてしまったことすら忘れてしまった記憶の破片を、私たちは夢という世界で、違う形に構築して観ているのかもしれない。そのマテリアルは必ずどこかで見た何かではあるのに、我々はそれすら気づかずに夢の中を一つの現実と錯覚して解釈してしまう。人間とはどこまでも愚かであるのか、いや違う、人間とは記憶すらも、ひと時の借り物として預かることしかできない。それほどに人は不自由なのだ。



さて、こんなことを夢うつつに書き散らかしているうちに、私は先ほどまで何も疑わずに過ごしていた夢のことをすっかりと忘却してしまっているようである。完全に思い出せないわけではないが、それは既にひどく断片的になっている。そして、その断片の隙間を一生懸命思い出して埋めたとしても、この復元作業がどこまで正確なのかわからない。わからないからこそ、今思い出した夢と、私が先ほどまで見ていた夢は全く姿を変えているかも知れない。そして、今の私は愚かにも、その思い出した夢を先ほどまで見ていたと錯覚しているのかも知れない。

私のみた夢は今どこに行ってしまったのだろうか。夢は夢に還っていくのだろうか。なんとそれは虚しいのだろうか。

ただ、そこに唯一の確かな部分がある。いや、あると思われる。記憶を呼び覚ますトリガーというか、それを形成している核というか、とにかく記憶には根幹の部分があり、私の中でそれだけは他の潜在意識に沈む無辺際な記憶と違って注意深く保管されていると思われる。

20年前の自転車の二人乗りの時にもそれを感じていた。なんとなくハーモニーのように残っている彼女との会話である。帰り道に自転車を漕ぐ私は、荷台に乗る彼女から発せられるその声色に安らぎを覚えていた。そして、夢の中で彼女を背負っていた私もまた、その瞬間になぜか心温まるような安らぎを感じていた。

その核となる安らぎだけは、私の頭の中でもわかりやすい場所に置かれていると思われる。そして、その安らぎという感覚を中心に私はその時の思い出を、じんわりと広げていくように思い出すのであろう。その広がりは足りないところを補正して、不都合な部分を脚色しているかも知れないが、そうやって私はこの安らぎを大切に抱えているのだ。

忘れたことすら忘れてしまうという悲しいほど無常な人間とは、常に孤独である。しかし、いずれ記憶の全ても肉体の限界と共に消えていくことで、人は永遠の孤独を免れている。有限の中で孤独を感じ、やがて消えていくのであれば、人が己のみで全てを完結し続けることになんら間違いはない。それでも、悲しいほど無常な現実にを忘れてまで他者を求め、いずれ終わる他者との交わりを少しでも長く、どうせ終わるのに片時でも長く、と願うのは結局はこの安らぎの為ではなかろうか。

私は親や知人との会話の中で、全く忘れていた過去の自分を聞かされるたびに自らを呪っていた。確証なき世界に、なんの前触れもなく、気づいた時から存在していた私なのに、その存在を裏付ける記憶すら消えているのが怖くてたまらないからだ。いずれ死ぬという揺るがしがたい事実があるのに、それを気にせずに生きることが、あまりにも自分に対して無責任に思えてしまうのだ。

このゲームやると最後は必ず死んじゃうんだけど、めっちゃ面白いからやらない?と聞かれたら、人は誰もやらないと答えるだろう。でも、人生とは、我々が生きる社会とは、そういうゲームと同じではないのか。うまくいけば80年生きられるけど、最後は必ず死ぬ。私の幼少期に「ゲームなんてくだらない」とのたまっていた我が父親もまた、このゲームを72年も続けていて、特段の疑問も、革新的な解決もないまま、やってもやらなくても全く同じであったような過程をただ72年進め、あと10年もしないうちに当たり前のように死んでしまう。ゲームオーバーになっても変わったことは何もない。ただ時間がたっただけである。

私のことを忘れないでとか、あなたのことを忘れないとか、なんとも聞こえのいい言葉だと思うのだけれども、それは全く荒唐無稽な狂気の台詞でしかないのではないか。

願うことで安らぎを覚えたり、相手を慮ることで安らぎを与えることに酔いしれて、人は時に無茶苦茶なことを言ってしまうのか。人は忘れていく、そして、忘れられていく。

暴論ではあるかも知れないが、忘れられてしまうぐらいなら、いっそのこと何も知らぬままの方がいいのだ。いや違う。どうせ忘れてしまうから、何も知らないことと同じなのである。


なんだか書いているうちに、眠気を超克してしまい、そのまま調子に乗って随分と脈略なくツラツラと訳のわからぬことを書いてしまったなと、今気づいた。

朧げな頭で書いたこの文章の冒頭部分はもうとっくに何を書いたか忘れてしまっている。これもまた記憶の儚さではないのか。儚いと言う便利な言葉で、この悲しみを抒情的にしてしまうのは日本文学の悪いところである、

儚さとは綺麗に聞こえるが、虚無と書けばどこまでも暗い。人間はこの物悲しさを儚さと捉えることも、虚無と捉えることもできる。記憶も現在にも確証のない世界だからこそ、現状の受け止め方は、その人の心のままなのだ。

笑って死ぬのも、悲しげに死ぬのも、その死という本質は同じだけれども、人はそこに差を感じでしまう。死という確証は、誰も得ることが叶わない。ただ人が死ぬことは、死んでも死ななくても何も変わらないからこそ、生きていても生きていなくても変わりがないし、その事実すら存在している確証はないことは、全ては始まりも終わりもない無であると言うことで、その実、つまり死は状態ではなく普遍なのである。

そんなことを考えると、忘れてしまうと言うことにすら本質的な意味はないのかも知れない。



……と、書いてみたところで、疲れたから今日はこれくらいでまた寝ることにしよう。明日、このnoteの下書きを読んで、それで気が向いたらアップしよう。また下書きが溜まるだけのような気もするが、何を書いたかも覚えてない状態で、明日の私はこの文章に何を思うのだろうか。。忘れてしまわぬように書き留めたこの文章を読み、まるで別人の所業と思うであろう明日の私は、はたして本当に今の私との間にイコールがはいるのであろうか。

おっと、またこんなことを考えると眠れない。いい加減に眠ろう。

それでは、おやすみなさい。


おわり

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