西村賢太が死んでしまったこと。

訃報を聞いたのはテニスコートの上だった。

友達が給水中にスマホを見て「ニシムラケンタって知ってる」と聞いてきた時、僕は彼がインスタか何か見てると思い、そんな名前の友人はいないので「知らんな」となんの気なしに答えた。

すると友達が「亡くなったらしいよ。芥川賞作家だって」と続けた。

「え?」

その瞬間に僕は、彼がニュースサイトを見ながら喋ってると気づいた。そして、それが西村賢太であると理解して時が止まってしまった。

まさか、まったく寝耳に水だった。まだ50代の西村賢太がそんなはずはない。近々、敬愛する藤澤清造関係の随筆も出すって話だったじゃないか。なぜ、なぜ、なぜ。

そこから丸半日経ったが、未だにニュースサイトで目にした「西村賢太さん死去」の言葉は理解できても頭が追いついてこない。

テニスが終わった後に、家に帰り自室の本棚に並んだ西村賢太の作品から、随筆を一つ手に取り開いて見た。何度も何度も複読した内容なのに、なんだか言葉が言葉のまま頭をすり抜けてくような感覚で、虚脱感からなのか、目の前の景色がいつもより遠く感じる。

西村賢太の小説は書籍化されたものは、ほぼ全て読んでいると思う。また西村賢太が没後弟子を名乗るほど狂的に心酔している藤澤清造の作品も、復刊したものは全て読んだ。更に西村賢太が若かりし日に心酔していた田中英光の作品も、単行本化したものは読破している。

なぜそれほどに彼の作品や、彼の心酔する作家の作品を読むのかと言われたら、やはり彼こと西村賢太の作品は抜群に面白く、また彼は私小説書きなので彼自身に魅力があり、そんな彼という人間を構成してきた作品もまた面白いからだ。

そんな彼が死んでしまったことが不思議で仕方ない。悲しいとか寂しいとかではなく、そもそも直接会ったこともないし、作品と作家自身はどこまでいっても別物であるから、彼という人間がこの世から居なくなってしまっても、僕の読んできた彼の作品が消えるわけではないのだから。

作者と読み手の関係は作品が残る限りは時代を超えて永遠であるし、新作が読めないのが悲しいなんて言う馬鹿で白痴じみた感傷など全くない。死はいつやってくるかわからないし、生きてたとて次作なんてものは保証されてないのだから。。


僕が最後に読んだ西村賢太の作品は掌編歳時記という数名の作家が短編を寄せた作品集の中にある「乃東枯(なつのかれくさかるる)」という短編だった。

これは西村賢太のいつも私小説のようであって、微妙に時代背景がずれてる不思議な作品で、まぁそれはオチを見ると、なるほどな。ってなる仕掛けである。

ようするに、これは藤澤清造が主人公の「私小説のような」作品である。そして、この作品には西村賢太の視点から、藤澤清造の代名詞である「諦観と無念の二律背反な感情」をフィルターに死を見つめる不思議な作品だ。


これは死を諦めているようで、そこに縋っているとても人間らしい本質的な文章だと思う。太宰のように死に向かうこともなく、三島のように意志で死を超えようとするわけもなく、諦めでも抗いでもない、鼻白むほどの幼稚な慰めであり、縋り付く結論である。

この文章を一昨年に読んだ時に「ああ、いつか西村賢太も死んでしまうんだな」と僕は心から思った。

僕が尊敬する作家は何人かいるが、その時に生きていた作家は西村賢太と村上春樹だけだった。川端康成も三島由紀夫も北条民雄も太宰治も田中英光も死んでしまっていた。作品は普遍であったけど、彼らの作品に出会った時には既に彼らは死んでいた。そして今日、西村賢太が死んでしまったという訃報を知った。

本当はこのnoteでは、今まで読んだ西村賢太の作品の素晴らしいところや、心に響いたところ。彼の随筆の面白さや、私小説にたいする彼の狂的な思い入れなんかを、もう一度調べ直して構成して、なるべくわかりやすく書く予定だったんだけど、とりあえず今の気持ちを書いておきたくて、下書きもなしに書いている。だから、内容や構成がチグハグだったり、話が飛んで申し訳ないのだけど、最後にどうしても今の自分の中にある感情を書いておきたい。

死んでしまったことがファンだったから悲しいって感情は全くない。そもそも僕は別に西村賢太のファンではなかったと思う。彼の書く私小説が好きで文学として読んでいた。書き手と読み手の関係だったと思う。

僕が文学というものに興味を持ち、大学に入ってまで学んだ現時点の答えは、純文学とは

「あなたがいて、私がいて、その間に死がある」

っていうことだと思う。

読み手がいるから書き手は書いていて、書いたものは長く残る。書き手が没しても読み手がいる限り文学は残る。書き手が書いた瞬間から、読み手と書き手の間には死、または死と同等の距離がある、だから書き手が生きていようが死んでいようが本質的な違いはない。

書き手は書くまでに苦悩をして、書いた瞬間からその作品は独立して読み手に委ねられる。名作とは時の流れに色褪せない普遍性があるから、読み手によって紡がれていく。これが文学だと思う。

文字が生まれて、それを後世に記せるようになってまだ1000年ちょっとしか経ってない。そして、忘れてはいけないことは、今僕らが目にしてる文章は人類が続いて、読み手が受け継ぐ限り更に1000年後、いやもっと言えば100万年後にだって残り得るのだと思う。その頃には紙ベースでもないし、全てが変わっているのかもしれないけど、何らかの形で残ることは残るのだと思う。

僕が今個人的に研究している北条民雄は1937年に死んでいる。でも、僕は彼の生前の作品を読んでは、人間という存在の普遍性を感じている。彼の当時の苦悩は、僕の現代の葛藤とリンクするところもたくさんある。彼は没しても、そうやって文章は時を超えて残るのだ。

そんなことを思うと、西村賢太は死んでしまったけど、不滅の肉体などこの世にあるわけもなく、いずれまた自分も死んでしまう運命の中で、彼の残した作品を読み、自らの中で何かを感じることだけが、唯一のできることなんだなぁと思う。

なにも変わらないようで、悲しむようなことでもないようで、不思議と心にぽっかりと穴が開いてしまうのは、きっと人間だからなのだと思う。事実と感情が乖離してしまう時に、事実という静寂を見つめながら、感情の波に揺られていると、つくづく人間ってものは難儀だなあと思う。

死とはどこまでいっても虚無である。まぁ死んだことないからわからないけど。虚無に消えていった私小説家が残した作品を、これからも僕は生きている限り読み続けると思う。

いずれ虚無に消えていく運命の中だけど、だからこそ生きてるうちに、、どうで死ぬ身の一踊り。


おわり。

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