恥の上塗り、酒の反吐、ゴミの一念、そう、そんな感じで今日もまた死に損なって生きながらえる。

あなたは人生で何回「明日からちゃんとしよう」と決意を新たにしましたか?

あなたは何回「このままじゃダメだ。しっかりしよう」と思い直しましたか?

私は、こんなことを何回も考えては、閃光のように一瞬でその思いを爆発させて、酒に溺れ、他人に当たり散らし、自らの愚行を棚に上げては世の中を呪詛し、醜く己の理想と行動を乖離させながらも生きてまいりました。

そして、このようなくだらぬ一念発起なんぞしてしまったがために、案の定挫折してしまうことに気づき、もはやこの前向きな人間の感情こそが愚かな過ちであると揶揄をして、神のような視線で社会を見下し、他人を蔑み、人間の営みすらも大罪の如く断じて非難を重ねてまいりました。

ただ、私はこのような愚行を重ねつつも決して自分のことを白痴だとは思ってはおりません。いや、私はこう見えて案外に利発で聡明であるのです。それ故にくだんのような社会や人間を忌み嫌いながらも、自らの思考を決して正しいなんて思ってはいないのです。どこまでも酒に溺れ、社会に弾かれ、修羅の肥溜めに首まで浸かっていようとも、その全ての元凶に自らの無能があることもまた十分承知しているのです。

それが為に私は辛くて仕方ないのです。それは自己嫌悪などという甘な陶酔的感情ではなく、自己否定の最たる哀しみのヘドロです。自己嫌悪という他人から嫌われる前に自らを嫌って自己弁護をするという狡猾な心理術とは違い、長年の己に対する腐った感情が沈積し、上部の薄い悲しみが蒸発しても尚、沈澱した怨嗟の悲哀が不純のままに純度を高めつつ腐り固まったそれは、私の奥底にこびりつき、私自身を腐食していくかのようです。

私は強く思います。生まれてきた悲劇は、死にゆく過程で笑いに変えねばならぬのです。人生とは何もないからこそ、せめて笑えねば救いがないではないですか。

そんなことを大真面目に書いてみると、なんともこの駄文はすら嘘臭さと擬態に満ちた駄文にも満たぬ不遇な叫びのように聞こえてまいります。

完璧な文章などこの世にないのかも知れませんが、完璧がないのであれば全てが駄文ではないのでしょうか。駄文を芸術とみせる技は欺きの他ならなず。つまるところ、何かを書くということ自体が嘘なのです。私はこうして何かを書くという時、虚言を流布しているに過ぎないのです。ああ、なんと醜いこと。

と、このように己の愚かしさと、人間の哀しい性を書き連ねるほどに浮き彫りになる、生きていかねばならぬという戒めは重く、暗く、私の中に闖入してきます。それはまるで私の中に寄生するように、いや私という物体に絡まる蔦のように私の中と外に広がっていき、重さと暗さはマーブル模様のように私を染めてしまいます。

生まれたことが悲劇の始まりならば、生きていく過程は哀しみの連鎖であり、それでも尚、生に縋る愚行の贖罪は彼岸に待ち受けているのでしょうか。もし、彼岸すらないのであれば、この生に縋ることが人間の営みであるとしたならば、人の一生の無常は家畜の豚と同じではないですか。

人間の食のために生まれさせられ、ただ囲われ、食わされ、糞尿を繰り返し、太らされ、やがて屠殺され食われる豚と私の間にある違いなんぞ一個もありゃしませんじゃないですか。

それなのに、それを理解しても尚、明日に希望を持って、ポマードで頭髪をテカらせ、ひげを剃り、風呂で垢を落として、スーツなんぞ羽織って働くなんて、白痴にだって無理だと思うのです。

馬鹿にならなきゃ生きていけないのが社会であるならば、馬鹿になってそこに漂うのも一興だとは思いますが。家畜小屋の豚として生きることにポジティブな豚なんかいるわけもなく。豚にポジティブもネガティブもないように、私達が社会に漂うならば、私達は何も考えることなどできないのです。豚は豚らしく、食って糞尿、眠って食って糞尿、けたゝましく鳴いて、食って糞尿。それだけなのです。

あいにく私は生物学に暗いので、専門的見地から豚と人間の違いを語ることはできません。ましてや高尚な人間でもないので、道徳的観点から人間であることの慰みと、豚に生まれなかった僥倖を語ることもできません。ただ、客観的事実を羅列した結果として、豚も俺もお前も同じである。シノニムだ。あたいも、豚も、おまいさんも同じ穴の狢だ。なんだ、豚も狢も同じだったんかい。と、トンチめいたことを書くことしか出来ないのです。

なんだか書いていくほどに哀しみの渦は止まることなく、私はその渦に吸い込まれ、現世という水面から遥か海底の深層心理、いやあるいは悟りの境地(そうだそれはニルヴァーナ!)へと引き込まれていくようです。

涅槃(ニルヴァーナ)とは人間の立ち入れぬ海底と同じで、辿り着くには肉体を捨てた快楽の境地にいなければならぬのです。即ち、生きたままの悟りなどある訳もなく、生ある人間が語る涅槃とは単なる夢であり、辿り着くためには解脱ではなく入滅しかないのです。

つまり、古今東西の様々な法典に書かれし救いなんてものは所詮はまやかしであり、教えは鎮痛剤にもならぬ民間療法で、そんな偽物で和らぐ痛みなんて思い込みに他ならぬのです。そんな瑣末な事で悩む愚民は、プラシーボ効果で健康を得られる大間抜けであり、要するに健やな一頭の汚豚なのです。

聖書もコーランも般若心経も、申し訳ないのだけれども、そこに大した意味はなく、焚き火の着火剤として燃やすことでしか人を温めることは出来ないのです。(救いなんてカーマスートラだけさ)


さて、結局のところ人間は思い直して頑張れないという話を書くつもりが、なんだか書いているうちに私の哀しみがマーライオンのゲロのように止まることを知らず、主題が二転三転し、主張が八方塞がりになり、私自身が七転八倒して、挙げ句の果てに涅槃を死と見出してしまった訳なんですが。

なんだかこの結論はとても理にかなってると思わざるもの得ない次第でございます。つまり人間はいずれ死ぬのだから、時間ていう些細な概念さえ取り除けば、私たちは涅槃にたどり着いているんです。

なんの力も借りず、誰と交わることもなく、時間さえ克服してしまえば、我々は全てを超克して、全ての事象の終焉に咲く、一輪の曼珠沙華のように、完結と超越を繰り返しながら輪廻の外側に咲き誇れるのです。

辿り着いたのではなく、涅槃は最初からそこにあったのです。ありがとう!お釈迦様!ありがとう!イエスキリスト!ありがとう!ムハンマド!そして、おめでとう!碇シンジ君!


さて、話もまとまった事なので、明日から真面目に生きる私はそろそろ寝るかな。読んでくれた人ありがとう。


って感じで、おわり。

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眠れない夜に

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