人生はいつだって最悪。

人生はいつだって最悪だ。良かった試しなんか一度もない。何もこれは自分を過大評価して、棚から牡丹餅的に、我が身に僥倖がふってこない状況を呪詛してるわけではない。

人生において、ラッキーがやってくることなど、ハナからないものと思っている。因果応報で言ったなら、明日いきなりキチガイに拉致されて、散々にアナルを掘り上げられた後に、四肢を縛られ、チェンソーで生きたままぶった斬られても、文句が言えないような、生き方をしている。

積んできた徳は吹けば飛ぶような瑣末な物のわりに、かけてきた迷惑は膨大で、残りの人生全部かけても精算の当てがないのだから、もはや自らのデコに「落伍者」という焼印を押し、国家から頂いてる人権を遠慮しつつ、自分という人間を最大限に自重しながら生きることしかできない。

最悪の人生とは、こうやって自発的な心の雁字搦めと、他者から与えられる蔑みと、その蔑みの間からわずかに届く同情を、勝手に愛情と勘違いしては有頂天になり、その有頂天の中でハッとその偽りの愛情が空っぽだと気づく絶望までがワンセットである。

生きていてもなんの意味もないのに、その無意味でただの苦行でしかない無駄な人生を、どこまでも諦めきれずに縋っている。それは例えるなら、その辺のゴミクズを神と崇めて(偶像崇拝的に)、嬉々として拾いあげて、家に持ち帰り、神棚をこさえて、そこにゴミを飾る行為のようだ。

翌日からは、朝に一礼からのお祈り、寝る前にももちろん。それを繰り返し、良き一日はゴミに感謝して、悪い一日はゴミに向かって反省と、明日の幸せを祈るのだ。この良かったらゴミのおかげ、悪いのは自分の無能&ゴミへの感謝を繰り返すと、不思議とこのマイナスなき加点方式の結果、ゴミはゴミを超えて崇拝の対象となり、人は人である喜びと、ゴミの恩恵に心から感謝するようになる。

これを繰り返すほどに、人は幸せになれるのだから、盲目ほど人生を彩るアクセントはない。幸せとは没頭を超えた、個人の放棄と、その身を捧げる献身なのだ。

「え?これ、ただのゴミじゃね?」なんて、はすっぱで、野蛮で、不敬で、自らの無能を棚に上げたようなイカれた考えなど、持つやつが異常者で、強姦魔で、人殺しなのだから、もはやこんな事を考えた時点で、丸太に縛り付けて銃殺するべきだ。異常の排除は、ますますゴミの尊厳を高める。もう、我々はゴミ無くしては生きていけない。我々は常にゴミを基準にするしかできないのだ。

ゴミは神であり、モラルであり、思想でもある。そして、それが自らの矜持であったりもするのだけれども、これらは違うようでみんな同じである。自らの神なんてものは、他者からしたら余裕でゴミなのである。ワイドショーで日々騒いでいるモラルなんてものは、所詮ゴミだし、殉教者が高説に宣う説法なんてものもゴミにすぎない。

皆、そろそろ気づいたほうがいい。それって、ただのゴミじゃね?

イエスの言葉も、コーランの一節も、仕事も、家族愛も、金も、名声も、誇りも、道徳も、悪徳も、全ては同列にゴミである。そんなようなことは200年も前にマルキドサドが言ってる様な気もするんだけど、でもそうやって誰かがゴミだって叫ぼうが、ゴミを金と呼びたい人や、ゴミを誇りと思いたい人の方が、やっぱり沢山いるのだから、ゴミはまだまだ別称で呼ばれ続ける。

それは仕方のないことだ。好色でスケベで下劣で、人間の最下層である俺は、二六時中に飢えている。暇さえあれば、暖かい女の股ぐらに、自らの不浄な愚息を突っ込むことばかりを考えている。クズのくせして、人一倍好色のわりに心がさもしい俺は、心の通うなどというクソの役にも立たない幻想など、全く放棄して、女を道具として見ているきらいすらある。

でも、どこまでも円滑にリピーターとして次回の挿入や、変な噂が立ち流れて、他の女との挿入の妨げになるのを恐れて、人間らしいやり取りを挟んでいるのかも知れない。本当のところは全くわからないけど(まぁ全ては所詮ゴミだから、悪い方の考えが正しいのだけど)そんなもんだと思う。

まぁ、話は飛んだが、とにかくそんな俺みたいなクズがどんなに性に狂ったところで、社会がそれを是とせず否とするなら、諦めるしかない。

そもそも、セックスなんて不浄の極みであって、この最先端の時代においては、注射器で受精卵をオマンコにリターンすれば、万事サオなど使わずに子供が持てるのだから、数々の性犯罪の根源であるサオなんてものは、枝切り鋏でパチンといっときましょう。それが健全な社会の第一歩です。

なんて考えが巷に広がり、いつのまにかオチンポチョッキン党なる政治団体が、「オチンチンをチョン切ります!」なんてスローガンと共に、衆議院で過半数を獲得して、その時代の流れにトチ狂った自称リベラル政党が「新しい価値観」なんて、戯言共に連立政権を作ってしまったら、俺のオチンポ遊戯は呆気なく終焉を迎えるしかないのだから。

愚息をぶら下げて逃亡したところで、オチンポ取締局と長野県警の合同チームにあっさり山中で捕縛され、そのまま留置所から、豚の屠殺場を改修工事してできた愚息屠殺場で(オチンポチョッキン党はヴィーガン思想でもあるから、肉食など、とうの昔に撤廃されてる)、ゴム手袋をしたドクターXに「私、失敗しませんから」と絶望の一言と共に、子離れさせられてしまうのだ。

そんな時代がやってきたら、もはや俺個人の尊厳などゴミと化してしまう。俺がいくらセックスにアイデンティティを持とうが、そんなものは時代の流れや、思想の広がりによって一瞬で消し飛ぶ、結局はゴミみたいなものだ。

自分を持つことで、何か社会に抗い、考えることで何か新しいことをやっている気に人はなりがちだけど、そういった諸々の些細な自己納得なんてものは、どこまで行っても今の社会状況を知らずのうちに鑑みて導き出した、オリジナルではなく、妥協案でしかない。

ゼロから何か作ったと誇る人も、そもそもゼロの地点に立てる人など誰もいないのだから、それは犬も歩けば棒に当たると同じで、たまたま何かに当たったに過ぎない。そんな当たり前のことにすら気づけず、自らに陶酔して、己が歩いた過程を、脚色して大業のように語るやつなぞ、既に自らが見えてないし、記憶を彩っている時点で、全てを虚構に落としてる、もっぱらただの詐欺師にすぎない。

生まれたということは、ただこの世界に投げ込まれたということだし、投げ込まれたということは、やがて死とともに回収されるということだ。

その回収先が何なのかなど、投げ込まれた世界のうちにいる限り皆目見当がつかないが、投げ込まれる前がないのだから、やはりその後もないと考えるのが妥当だと思う。

つまり、今の前が無であり、未来も無であるから、時間軸で考えて、前(無)=今=未来(無)であるなら、必然的に今も無と考えるのが妥当でもある。

結局、かけ値なしで考えて妥当路線を思案すると、全てが虚構で、生きることが無意味であるという答えに行き着くから、人生は最悪なのだ。

そう、いつだって人生は最悪。

その大前提を忘れて、何か行動をする自分に陶酔している人間は本当に気持ちが悪いと思う。どんな高尚な考えのもとに動いていたとしても、どんなに取り繕って他社や社会のためと声高に叫んでも、行動の発露はいつだってエゴである。他者のために水を汲む行為が、止めどない苦痛と流血を伴い、それを続けることが死につながるなら、人は水を汲まない。

水を汲むことが賞賛されるモラルがあったり、社会の中でその水がないと死ぬ人との繋がりが出来ているなら、あるいは人は命を賭すかも知れぬけど、その発露は自らの名声欲や、その他者との精神的な繋がりの陶酔であるならば、やはり生きることは最悪だ。

数々の哲学者や文学者が、生の本質を探そうとしては、やがて何も得ぬまま死を迎えていった。あるものはその死を持って生の本質に近づこうとしたが、やはりただ死んでいった。何もなかった。何かを見出そうとして、見出した気になっては、それが空っぽであると知るだけだった。

そんなこんなで彼らが残した書籍や文章は、どれを読んでも、必ず俺にこれを伝えてくる「人生はいつだって、最悪だ」と、

そして、例に漏れず、最悪の中でみんな死んでいった。それ以上でも以下でもなく、ただずっと無であるようにも思える。


と、ここまで書いたところで目覚ましが鳴った。

あぁ、今日もまた仕事だ。

昨夜、目を閉じて見たけど、眠れずに、少しだけ眠った気はするけど、目が冴えたのが夜中の四時。そこから、ぼーっとして、いつものように文章をつらつら書いてたら、クソみたいなこと書いていて、この時間。

全く最悪だけど、仕事にいこう。

せっかく久しぶり書いたnoteだから、これはこれとしてアップしてみようと思う。

今日の昼間にもう一度読んで、やっぱ違ったら消せばいいだけだし。なんだか、最近は何を書いても暗い。まぁ、それでも良いんだけど。

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