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舞台刀剣乱舞 天伝 一期一振という刀。ステの刀たちはひたすらに「物」であり、ひたすらにいじらしい

刀剣乱舞は大元のゲームを原作ではなく原案としていて、「みんな違ってみんないい」が気持ちよくハマる稀有なメディアミックスを展開していると常々思っている。

舞台刀剣乱舞の刀たちに思うのは、彼らが一貫して「物」であり、物が心を持った故の葛藤、悲哀が、ずっと描かれ続けているのだなと。だから、歴史上の人物のように自分の天命を知るわけでもない庶民たる自分とは時に相容れず、時にどこまでも冷たく感じられ、そして時に、心がギリギリと締め付けられるほどに彼らのことを愛おしく思う瞬間がある。

それは、元の主に対する態度や言動に現れる。まだ彼らが心を持たない「物」でしかなかったときに寄り添った記憶。寄せられた思いが「心」となる、と三日月宗近のセリフ(意訳)にあるけれど、たとえば自分が大事にしている物が、将来人の身となって「あのときはこうだったね」とか言ってくれたら…夢の世界じゃないか、なんて思ったりもする。

彼らは一様に、元の主の行く末までも知っている。そして、元の主が滅びゆく現実を「歴史」として守らなければならない立場にある。後から心を持ったが故に、ただ「史実」としてあったものが残酷な悲劇へと変貌する。…前言撤回します。全然夢の世界じゃなかったわ。

表現は違えど、ステの刀剣男士たちは、元の主に対していじらしいまでの愛情を示す。虚伝の不動、義伝の歌仙、如伝の長谷部、維伝の陸奥守、そして悲伝の三日月さえも。純粋に慕う視線だったり、素直に嬉しそうな笑顔だったり、素直じゃなくても誇らしげであったり、守れなかったという口惜しさであったり。

人間よりずっと長い長い年月この世にあって付喪神になった刀剣男士は、やっぱりどこか達観していて、物の無機質さも有している。そんな中で、「人」と「大事にされた物」であった過去の関係性の名残りを垣間見たときに、胸が締め付けられるほど愛おしくなるのだ。

そしてそんな彼らの姿がいたいけであればあるほど、「元の主が滅びる歴史」を守らなければならないことの残酷さが際立つという地獄の構成である。さすが末満氏、という他ない。

※以下、「天伝」ネタバレあり※

一期一振という刀。
穏やかで、気品があって、弟思い、ちょっと天然かもしれないがあまり隙はない。
というのが、天伝を見るまでの印象だった。

末満健一氏が脚本で掘り下げ、本田礼生くんが体現した一期一振は、その印象の何百倍も魅力的で、ただただ脱帽した(これ以上推しを増やさないでください、いやウソですもっとやってください)。

元の主、豊臣秀吉。その子、秀頼。
もちろん一期も、深く思い入れはあるのだけれど、大坂落城の際に燃えたために記憶がほとんど残っていない。そのせいか、一見すると今までの刀剣男士と元の主との関係に比べて他人行儀な感じもする。

物語中盤から、秀頼に「父上はどんな人であったか」と聞かれ、「私は何者なのか」と縋るように詰め寄られても、何も答えられない歯がゆさを積み重ねていくうちに、一期なりの「元の主への思い」が浮き彫りになっていく。一幕ラスト、二幕の出陣前の独白、そして大坂城本丸でのクライマックスからの阿形との一騎打ちは珠玉の名シーンなので、ぜひ確かめていただきたい。

そんなふうに葛藤しながらも、ステの「一期一振らしさ」はこれなのかな、と思ったのは、あくまでもこれが「任務」であるという姿勢は一貫していること。決してブレないこと。弟たちを優しく諭したりまでする。その態度に、観ている方もなぜか安心する。

素晴らしいのが、どんな心情のさなかでも鯰尾や骨喰に呼びかけられて振り向く前には必ず微笑みを作るという演技の徹底。

そしてそのすべての「らしさ」の根底に、「自分が何者であるのか」という問いへの答えがあったのかと思うと、いじらしくて涙が溢れてくる。

「良い兄」という「何者か」であるために弟たちに縋っている。「豊臣にあった刀」であるために微かな記憶に縋っている。
その懺悔を吐露して、許されたときの諦めと安堵。あの儚くもあり晴れやかでもある表情。

強さの裏に記憶がないが故の空虚さがあり、穏やかさの裏に心細さや孤独がある。
一期一振…なんて魅力的なキャラクターなんだろう。

あと余談ですが、あんまり気負ってないときのアドバイスのほうが響いて知らず知らず仲間を救っている山姥切。君がステ本丸の近侍でよかったと心から思うよ。

末満さん、本田さん、カンパニーの皆さん、今回も刀剣男士の新たな魅力に気づかせてくださって、人生に彩りを与えてくださって、本当にありがとうございます。

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