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アウトプットと頭の整理

コロナウイルスの流行によって中止になった東京オリンピック選考会。

4年間この日のために準備して選手生命のかかった試合がいきなり無くなった。

やり場のない気持ちと何か残したいと思っていきなり始めたnote。

競泳選手として日本の上位になってから10年。いろんな経験と知識がついた。せっかくなのでそれをシェアしたい。そう思う。


まずは自分の競泳人生を振り返って書いてみる。

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 水泳を始めたのは両親が学生時代に水泳をしていた影響である。小学校3年の後半に選手コースに進んだ。小学校時代ではスイミングでも下から数えたほうが早いくらいの選手だった。ひとつの転機になったのは小学校5年の冬だった気がする。リレーで全中優勝するぞ!というコーチの一言だった。たまたま西浜中学校に進学するチームメイトが4人いた。その4人で全中優勝なんて無理だと思った。当時50mFrで31秒くらいの自分ができるはずないと。しかもその4人でJOの標準すら切ってない。そのためリレーはスイミングで速い人4人が出るのが一般的だが西浜中学校のメンバーで、遅い自分を入れて出場させてくれた。リレーメンバーを譲ってくれたチームメイトには感謝しかない。毎月のようにミーティングをして目標までの距離、アプローチの仕方を叩き込まれた。少しづつベストが出てJOへ近づいていく。その先には全中優勝。それが楽しくて仕方ない。そんな小学校、中学校時代だった。結局全中は14位だった。悔しいが今の自分の原点でもある。

 別のスイミングで仲良くなった友達と水泳をするために住んでいた市の隣の市にある県立海南高校に進学した。雨の日も雪の日も35分自転車で通っていた。高校はスイミングではなく学校練習だった。先生はメニューは生徒で回してメイン練習の時にフラッときて終わったら帰る。そんな自主性を重んじるコーチングをしていた。文章にすると冷たく感じるが、毎週土曜の朝練後チーム全員をご飯に連れて行ってお腹いっぱい食べさせてくれるような人情溢れる先生である。高3のときは練習もしっかり積めて全国大会の決勝に初めて残れる自信を持ってインターハイに挑んだ。ただこの年は高速水着のつかえる最後の年で例年よりもレベルが高かった。前年だと3位相当のタイムで泳いだが、12位。高校卒業して10年になるがその年以外は決勝に残れていた。そんな運のない?水泳人生だった。大学からの勧誘も近畿圏内の2校だけだった。国体の直前に高校に直接鹿屋体育大の田中先生から電話が来る。思ってもみない勧誘だった。例年よりもレベルの高いインターハイだったせいで声をかけていた選手が軒並み都会の大学に進学を決めたせいで自分まで回ってきた。高校の先生からは明日までに返事をしろと言われた。家に帰って親に相談すると自分には記憶がないがスイミングのコーチが高校大学の青写真を語っていたことを聞かされた。それは今の高校に進学し、鹿屋体育大に進学すること。びっくりした。その話がきっかけで鹿屋体育大に進学を決意した。

 大学は濃い内容になるので一旦締めて次回書きます。

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