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何をしたかより、どうあるか。

仏教的な考え方を人生のベースに置く私は、功徳を積むことで人間は成長するのだ、と考えています。
人の為になることをして、人は錬成される。評論ではなくて、実行のみ。
 
それは仕事に関しても一緒で、目の前の人みんなをお客様と考えて、今この瞬間にベストな、何をして差し上げられるか。それを続けるのが仕事道だ、と考え続けてきました。
 
しかし同時に、あたかも修行であるかのようにそのことを自分に課すると、時折逃れられないモヤモヤに捉えられてしまいます。
「こんなに助けているのに、なぜ感謝されない/こんなに成果を挙げているのになぜ認められない」。
 
もちろん、見返りを求めて貢献しているつもりはありません。しかし、悟りを開いた修行僧でもない一般人の私は、このモヤモヤをゼロにすることが出来ません。
 
逡巡したり、前に進んだり。それを繰り返した私は五十路になってようやく、「何をしたかより、自分がどうあるかが問われているんじゃないだろうか」と考えるようになりました。
 
「何をしたか」は世の中にどれだけ貢献をしたかであり、「成果指標」です。募金に例えれば、募金額の大きい方がより功徳を積む、ということになります。

しかし、こんな考え方をすることは出来ないだろうか。汗水たらして働いた今月の給料から5万円を寄付する人と、あぶく銭で得た百万円を、札束で相手の頬を叩くようにして投げつける人。
(まあそんな人はいないわけですが。例えて比較するための極端な例です。)
 
これで百万円の方が多くの功徳が積み上がる気がしません。
 
「もらう方」にしても、あり方が問われると思います。
僧侶に「托鉢」という修行があります。在家の人々から施しものを貰う。

一つ間違えれば「乞食」になりそうですが、卑屈な態度で施しを求めるのは僧侶のあるべき姿ではありません。かといって、感謝の心を忘れて不遜な態度で受け取るのも違います。つまり明確に定義できない「あるべき姿」を自然体に体現出来ているかどうかを一瞬一瞬に、問われているわけです。
 
凡夫の私は、一日も持たずにギブアップしてしまいそうです。「もう托鉢は無理です勘弁してください、工事現場で朝から夜まで働いて弁当を買って食べる方が100倍楽です、すみません!」と言って逃げ出しそうです。
 
いま私は、「内なる実験」を仕事の中で実践しています。業務推進するときに、成果にこだわらない。それよりも、自分が自分らしくあったかどうか。成果を出したいという気持ちを捨て、自分の心の動きに集中する。そしてそれは実験でもあります。成果を放棄すればむしろより大きな成果が出るのではないか、という逆説的仮定。間違って上司にこのnoteを読まれると怒られそうです。
 
ですが、実はnoteを読まれるでもなく、わたしはこのことを上司に話してしまいました。
 
私の今のアメリカ人上司は私に勝るとも劣らない変態で、
「ヨシ(私はそう呼ばれている)はブディズムのゼンの考えで生きているんだな!俺は親友のネイティブアメリカンの影響を受けていて、毎日自分に与えられたカルマを考えて生きているんだ!」
と言います。
 
そんな上司とタッグを組んでグループ工場の現場を次々に良くしようと企んでいる最近の日々は、とてつもなく楽しいです。

今年も仕事に、プライベートに、良き出会いがありますように。

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