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雑記林①『生きるということは』

“生きることは
    息をすることと心得たり”


母が亡くなってからまる2年が経ちました。

無事に3回忌を終えることができ、
ボクの心にのしかかっていた重しも
日ごとに軽くなっています。

お気づきの方はほぼいないとは思いますが、
ボクのプロフィール欄に書いてある重さも
当初3000トンだったのが1000トンへと
減りました。

この2年間、いただいたコメントやフォロー、
いいねに瘉され、励まされ、救われた日も
決して少なくはありません。

普段ボクのnoteを読んでくださる皆さまには、
この場を借りて改めて厚く御礼申し上げます。

いつも本当にありがとうございます。

さて、
徐々に日常を取り戻しつつあるボクですが、
母の死の悲しみが癒えるにつれて
これまでの詩だったり狂歌だったり
介護録といった形式に当てはまらないものを
書きたくなることも多くなってきました。

ということで、なんでも書ける新シリーズ「雑記林」をはじめたいと思います。

シリーズ第1回にふさわしく(?)
ボクらしくダジャレっぽくありながらも
少し重々しいテーマでもあるのですが、
“生きること”について。

最近、瞑想にハマっていまして、
そこから体感的に感じたことを
こちらに書かせていただきました。

“生きることは
    息をすることと心得たり”

いままでボクは無意識に呼吸をしていたのですが、
瞑想をする際は意識的に丁寧に深く呼吸をします。

息を吸う・吐くというひとつの呼吸を
意識的に丁寧に行うことにより、
それ以外の動作・行為においても
能動的に自らの五感で感じながら
行うこともできるようになり
まさに今という刹那を生きることと
繋がれた気がしました。

無論、“息をしていない”ということは、
文字通り“生きていない”=“死んでいる”ことをも
意味しますが、
言霊学の観点からも、似ている音の言葉は
似ている意味を含むことが多々ありますので、
古来の日本人が同じような音の言葉にしたはずと、
個人的には思えてならないのです。
(言霊学に関してはビギナーレベルの浅めの知識しか持ちあわせていませんのであしからず)

これまでボクは
あまりに周りの環境と空気に流され
あまりに周りの感情と思惑に振り回されて
強制的かつ受動的に生かされてきたのですが、
これからのボクはもう少し意識的かつ能動的に
自らの感覚と思考とを大切にしながら
丁寧に生きていきたいと思っています。

もちろん、“生きる”ということは“生かされる”ということ。

周りの存在があってこそのボク。

これすなわち“縁起”とでも言いますか、
強制的な受け身の“生かされる”の意味と捉えず、
周りの人やものだったり
人智を超えた存在だったりに
“生かしてもらってる”といった意味で捉え、
感謝の気持ちと謙虚な姿勢を忘れずに
自分の人生を生ききりたいと願ってやまない
今日この頃であります。

息をすることや瞑想に関しては、
いつか書かせていただくと思います。

そして、母国語なので若干贔屓目ではありますが、
ボクたちの言葉・日本語って
本当に面白くて奥が深くてかっこいいなぁと
個人的には感じていまして、
日本語や言葉についても
いつかまた書かせていただきたいと思っています。

と、まぁ、なんだかさらに怪しい方向に
進みつつあることをお知らせする結果となり、
読んでくださる皆さまにご心配を
おかけしていることとは思いますが、
そんなボクでも今日を幸せに
無事に生きながらえさせていただきました。

あなかしこ
あなかしこ…
(結局最後はいつものテンプレで締めてしまいましたがあしからず.. )

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