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幻の形を見るとき

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詩編・聖書日課

2023年8月13日(日)の詩編・聖書日課
 詩編:121編1〜8節
 旧約:エゼキエル書12章21〜28節
 新約:ルカによる福音書12章35〜48節

はじめに

 おはようございます。2ヶ月ぶりにお話を担当させていただきますけれども、皆さん、お変わりございませんでしょうか。本日も相変わらず、うだるような暑さとなっておりますからね。礼拝中ですが、遠慮なく水分補給をしながら、しばらくの間お付き合いいただければと思います。
 さて、戦後78年、78回目の「終戦の日」を直前に控える中、本日8月13日(日)の朝を迎えております。この日の礼拝で、戦争と平和について語らぬは宗教者に非ず。そのように考えておりますので、僕も本日は「終戦の日」を覚えつつお話をさせていただこうと思います。

預言が実現しない

 それでは、まずは今日の聖書のお話からです。今回、旧約聖書のテクストとして選ばれている箇所は、エゼキエル書12章21〜28節という箇所でした。この箇所の背景には預言者エゼキエルの抱える二つの苦悩が隠されているように思うんですね。
 エゼキエルの抱える二つの苦悩……、それはどういうものだったのか。一つは、預言が成就しないという苦悩です。エゼキエルはこの時、いわゆる「バビロン捕囚」の最初の捕囚民として、バビロニアに強制移住させられていました。ですので、エゼキエルはエルサレムではなく捕囚の地であるバビロニアにおいて預言活動をしていたんですね。
 彼はそこで、エルサレムの人々、つまり強制移住を免れてまだエルサレムに残っている人々の上に、更なる災いが降りかかるだろうという預言をしました。エルサレムは最終的にバビロニアによって滅ぼされ、他の人たちもバビロニアへと連行されてくることになるだろうと、エゼキエルは宣告したわけです。
 ところが、待てど暮らせど、エゼキエルの語った預言が実現しない。最初の捕囚民に続けてエルサレムから人々が連れて来られる気配が見られない。そのため、エゼキエルは、一緒に捕囚の地で生活している人々から「あなたの預言は実現しないではないか」という批判に晒されることになりました。そして、今回の箇所に見られるように、彼は予言が成就しないことに関して弁明を余儀なくされてしまったわけです。エルサレムの滅亡という預言が成就しない。これが一つ目の苦悩でした。

実現してほしくない預言

 エゼキエルが抱えていたもう一つの苦悩、それは、エゼキエル自身がそもそも預言の実現を望んではいなかった、ということです。彼は、エルサレムの滅亡を預言したわけですけれども、それが実現するということは、すなわち、祖国や同胞、そして彼が祭司として働いていたエルサレム神殿……それらがすべて根こそぎ失われてしまうことを意味していました。そんな残酷な未来を、彼が望んでいたわけがないんですね。
 それでも、絶望的な将来像を語らねばならないほどの状況が、エルサレムには拡がりつつあったのです。なんと、圧倒的な軍事力と経済力を誇るバビロニアに対して、エルサレムの同胞たちが、無謀にも反旗を翻そうとしている!せっかく滅亡の危機を免れて、バビロニアの支配下にあるとは言え、安定した生活を保証されていたのに!まさに「飛んで火に入る夏の虫」。エルサレムの残留民たちは自ら破滅へと向かっていこうとしていたわけです。
 そのような情報をバビロニアの地で入手したエゼキエルは、捕囚の地で悲嘆に暮れている場合ではないと悟った。もはや、口を開かずにはいられなくなった。そして彼は、愛する祖国であるユダの滅亡、心の拠り所であったエルサレムの崩壊という「最悪のシナリオ」を、同胞たちへの警告として示したわけです。意を決して人々に預言を語ったエゼキエル。しかし、誰よりもその預言を語る本人が、預言の成就を臨んでいなかった。
 このように、第一に預言が成就しない、第二にその預言は成就してほしくない……という二つの矛盾する苦悩に、この時、預言者エゼキエルは苛まれていたということなんですね。

生きよ――預言された未来を顧みて

 エゼキエルは、この後の箇所で、神の言葉として次のような言葉を残しています。18章31〜32節。「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ。」
 神はだれの死をも喜ばない。立ち帰って、生きよ――。これは、エレミヤや他の預言者も述べていることです(エレミヤ27:12以下、アモス5:4以下)。預言者の使命は、一言で言えば、この「生きよ」という神の命令を人々に伝えることだったと、そのように言っても過言ではないと思います。エゼキエルは、未来の幻を見た。それは、まさしく滅びゆくエルサレムの姿だったわけですけれども、彼は、間もなく訪れようとしているその未来の幻を見て、「今」その未来を反省して、そして「今」生きるために(生き続けるために)正しい道に立ち帰れ、と人々に警告したんですね。預言者によって示された「確定したものとしての未来」を「顧みる」(預言者の言葉はしばしば「完了形」で語られる)。矛盾しているようですが、それによって「今」この時を変えていけるのだと、聖書の預言者たちは教えてくれているように思います。

預言者的働き

 さて、冒頭で触れた「終戦の日」に関するお話ですが、今日は皆さんに「聖公会の戦争責任に関する宣言」というタイトルのプリントをお配りしております。これは、1996年に開催された日本聖公会の定期総会において決議された、アジア・太平洋戦争における日本聖公会の責任を認め、その罪の悔い改めを表明したものです。1996年ということですから、戦後50年が経ってようやく出されたということになります。あまりにも遅すぎるという事実は否めませんけれども、同時に、半世紀という時間が過ぎて「戦後」という実感すら失われようとしている時代にあって、こういった文章が教団全体の宣言として出されたということに、個人的には一縷(いちる)の望みを感じます。

 この中の、最初の段落だけ読んでみたいと思います。


 1945年、日本聖公会は日本によるアジア太平洋諸地域に対する侵略と植民地支配の終焉という歴史的転機に立ちました。その年の臨時総会告示で、佐々木鎮次主教は戦時下の教会の反省を述べ、「国策への迎合」「教会の使命の忘却」を指摘しました。このとき、総会も主教会も教区も各個教会も預言者的働きをなしえなかったことを深く反省し、日本が侵略・支配した隣人へ心から謝罪し、真実に和解の関係を公会として求めるべきでありました。


 この後、天皇制や軍国主義に強く抵抗してこなかったこと、沖縄への理解を怠ってきたことなどへの反省の言葉が続けられているわけですけれども、いまお読みした段落の中に、このような言葉が書かれていました。「預言者的働き」という言葉です。「預言者的働き」とは、どのような働きを指すのか。それは何よりも「未来を預言すること」だったのではないかと僕は考えます。治安警察法や治安維持法などによる弾圧が激しい時代の中で、それでも悪に真っ向から立ち向かうべきだったというような非共感的なことは、僕には言う資格が無いと思っています。しかし、戦前、あるいは少なくとも終戦直後の時代においては、教会は「預言者的働き」を担わなければならなかった(しかしそれを怠ってしまった)のだと考えます。ここに名前が挙げられている佐々木鎮次主教ですら、1945年の臨時総会の場で次のように発言しています。「天皇のため祈願し来った聖公会は、今こそ陛下の御救いのため、真心こめた熱祷を献げらるべきを信じて疑いません。」(佐治孝典著『歴史を生きる教会 ―天皇制と日本聖公会』より)

 天皇の名のもとに、アジアへの侵略戦争に協力させられ、また国家神道によって自分たちは信仰の自由が踏みにじられたという怒りや憎悪の思いが心のどこかにあったならば、「国策への迎合」「教会の使命の忘却」という問題の根源にある「天皇」という「偶像」への批判ができたはずなのです。しかし、それをしなかった。偶像崇拝をこの国から取り除き、大日本帝国時代を完全に終わらせることのできるまたとないチャンスを、戦後の教会はみすみす逃してしまったのです。そのような戦後の教会の怠慢のせいで、日本はその後も、旧態依然の国家観、歴史観を引きずり続け、今に至っている。もしもあの頃、教会が社会の中心にあって「見張り」の役目を果たし、預言者的働きを為していれば……。目を覚まして、神の視点から「未来」を預言できていれば……。その「未来」は幻のまま終わったかもしれません。

おわりに

 今、我々の心の目にはどのような未来が見えているでしょうか。「わたくしどもの愛する祖国は、今日多くの問題をはらむ世界の中にあって、ふたたび憂慮すべき方向にむかっていることを恐れます。」というのは、1967年に発表された日本基督教団の戦責告白の結びの言葉です。その頃におぼろげに見えていた未来の幻は、今や具体的な形をもって見えてはいないでしょうか。国民感情そっちのけでオリンピックや万博といった打ち上げ花火でなんとかナショナリズムを高揚させようとし、その裏で安全保障を理由にした軍事費の増額や法整備を進め「戦争のできる国」に変えていこうとしている日本政府の目論見は、もはや誰の目にも明らかなものです。
 我々教会は、かつて大きな失敗をしました。もう二度と同じ過ちを繰り返してはなりません。「過去」を反省しつつ「未来」を預言し、そして「今」この時代に生きる人々に「主はこう言われる」と、神のご計画を告げる預言者として、教会が、またキリスト者一人ひとりが召し出されています。再び教会の活動が制限される時が来る前に、再び教会の中に国家主義・国粋主義という悪霊が蔓延する前に、全ての教会が立ち上がることが求められています。「未来の預言」を成就させないために。今もこれからも生きるために。次の世代、また次の世代の人たちに、平和な世界を継承していけるように。

 ……それでは、お祈りいたします。

祈り

 まことの神である私たちの主よ、今週私たちは78回目の「終戦の日」を迎えます。これまでの78年は、私たち教会にとって悔い改めと和解の時として過ごされるべきであったはずでしたが、果たして私たちの教会は、自身の罪と真摯に向き合ってこれたのでしょうか。かつてこの国が犯した罪とその結果は、私たちの生活だけでなく、植民地だったアジアの人々の心に深い傷と遺恨を残し続けています。また、沖縄をはじめとする地域には、米軍基地が置かれ、市民の生活が脅かされている現状があります。私たちの国が、戦後処理を適切に行わなかったせいです。悔い改めを呼びかけるあなたの御声に従うことができなかったこの国と私たち教会をお赦しください。この世界で誰よりも、歴史を重んじ、赦し合い、愛し合うことの大切さを知っているはずの私たちが、率先して平和を築いていけますように。また、今こそ私たち教会を用いて、この国の為政者や、平和を重んじない人々にあなたの正義を伝えさせてください。私たちが常に目を覚まして、世の見張り、預言者としての務めを担っていけますよう、私たちを聖霊で満たしてください。
 罪深い私たちをそれでも愛し続けてくださる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。

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