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大リーグ観戦自分史〜初の海外旅行記を兼ねて

  1. 初めて大リーグに興味を持ったとき

  2. 高校の英語教師

  3. 初の渡米


1.初めて大リーグに興味を持ったとき

そもそも自分が野球に興味を持ったのが漠然とは小学校2年ぐらい、実際にキャッチボールとかやったのはもう少しあとでプレイヤーとしてよりも観戦者的目線が強かった。学研の「ONの野球コーチ」なる本を買ってもらって技術的なことやプロ野球のこととか見だしたのがV9最後の年の1973年、そのときはむしろ高校野球の江川投手の甲子園デビューの時で伝説の3年春、江川が一番凄かったのではとされている時であった。広島商業のダブルスチールで準決勝で江川が散ったのだが、正直その試合は見ていない。ただ横浜高校が永川という投手を擁して選抜を制し、夏は春の雪辱を果たして広島商業がサヨナラ勝ちで優勝を決めたことは見た。何より雨の中銚子商業相手に押し出しサヨナラ負けした江川が印象に残った。

その頃から時々親にせがんでベースボールマガジン社の週刊ベースボールを買ってもらって読んでいた。翌年の1974年ぐらいだったかな、ハンクアーロンが来日して王選手とのホームラン合戦をやった頃だったと思う。コラムの中で記者が「今度大リーグの野球の視察に行ってきます」と言ったところパンチョ伊東さんが「サンディエゴスタジアムはぜひ行ってください」と答えた、という記事。そしてその記者がやはりそこは素晴らしかった、と。

その時から大リーグをもし見に行く機会があればサンディエゴと思っていた。


サンディエゴの球場に行ってみたいなあ

2.高校の英語の先生

高校に入学したとき、ちょうど先生も東京外語大を卒業したばかりの新人教師でした。自己紹介とか聞くと大の野球ファンで日本だと巨人・大鵬・卵焼きの世代で、大リーグ野球研究会なるものを作って活動しているとか。その名を藤澤文洋という。その頃はまだ若手の駆け出しだったが、年賀状の交換をしたときに毎年「王貞治選手と」「レジージャクソン選手と」とか著名野球選手、特に大リーグの選手とのツーショット写真を毎回載せていた。

卒業後も交流は続き、年賀状でのやり取りがほとんどだったが、後にアメリカに野球を見に行く時のアドバイスなどももらっていた。自分が大学を卒業した1985年ごろから藤澤先生は大リーグの中継の解説者に出演したり関連する本を書いたりしていた。この先生の存在が後々自分もアメリカ球場巡りをしようとした大きな動機となった。

3.初の渡米

とはいえ、自分の幼少期を鑑みるに乗り物酔いに翻弄された人生であった。我が家は自動車はおろか両親とも車の免許を持っていない。あげく母が乗り物酔いがひどく、遺伝的に自分は子供だから輪をかけて酷い。何せ強烈に印象に残っているのが幼稚園の時の遠足のバスでゲーゲーやり、同じく幼稚園の時に名古屋に赴任していた父に会いに連れて行ってもらったときに新幹線でゲーゲーやり、両親の実家がある九州の対馬に行く時は博多から船で6時間弱で(以下略)、ということで高校生ぐらいになってようやく電車には酔わないかな、となった程度。これはかなりのトラウマで自分の人生を決定するときに大きな影響を与えまた。自分は教科の中では英語が一番得意で、次に得意なのが数学。大学受験に際し将来的なことを考えると英語中心の学問を取った場合に就職したら海外出張などが増えるだろう、そうなると大嫌いな飛行機に乗らなくてはいけなくなる、そう考えると成績は英語に及ばないものの学問としては数学が好きだったので大学は数学科に進学した。このあたりのことは自分のnoteの別記事で書いた。https://note.com/yabiru917/n/n898e2306513c

いろいろあって研究機関に出向になり、当時バブルの頃でその研究機関ではご褒美?のように海外出張に行かせてもらえるということで研究員たちはそれを楽しみにしていた。ところが自分は絶対に海外になんか行きたくない。

恐れていた時が来た。自分は何も貢献してないのに同僚がアメリカの研究機関訪問、学会聴講するから一緒に行けと。自分の会社でなく出向ということだから一応他人の集まりであるから強烈に抗議するわけにもいかず、念のため「どうしても行かなくちゃいけませんか?」「どうしても嫌だというのなら行かなくてもいいけど、せっかくの機会だし行っておいたら?」とやんわりと言われると絶対に行け!なんて言われたら絶対嫌!とか反発するけどまあ普段の英語の勉強の成果を発揮しにいくか、とか思い渋々了承。この頃この研究機関では希望者を対象に英会話教室を定時後にやっていて自分も何故か参加していた。

訪問先は行く順にワシントンD.C、デンバー、シカゴとなっていた。ん?ワシントンとデンバーに大リーグの球団ってあったっけ?この頃はまだあまり詳しくなく、まあないならないでしょうがない、シカゴはあったはずだが日程的に行けるのか?という疑問を持ちつつ成田を飛び立った。いよいよ初の海外である。

今回の出張はワシントンD.C、デンバー、シカゴ

日付は覚えていなかったが、検索すればわかる。なぜなら5月の日曜にワシントンに到着したが、翌日がアメリカの祝日だったからだ。戦没者祈念日ということで5月の最終月曜が休みになる。休みの日に訪問なんて意味のないスケジュールだなと思ったが同行者の思惑だったのかの思いもある。成田発1991.5.26日曜日、ワシントンD.C到着同日夜。

ところで心配していた飛行機だが乗り物酔いというより閉所恐怖症のような気持ちになった。おまけに持病として咳き込むというのがあり正直10時間余りの飛行は地獄であった。このまま死んでしまうのかとすら思ったぐらい。ワシントンD.Cへは直行便はなくシカゴのオヘア空港での乗り換えとなる。その乗り換えの際にUSA Today Baseball という新聞があり買って見てみたが、やはりワシントンD.Cとデンバーには球団はなかった。ただ、シカゴ滞在中にシカゴカブスの試合がリグレイフィールドであることがわかる。とはいえ自分は初めての海外出張で日程をコントロールさせることはもちろんできない。

翌日コンタクトを取っていた研究員(というよりもっと偉い肩書があったと思う)にNIHというところで会い、その後昼食ということでメキシコ料理の店に連れて行ってもらった。辛くて口に合わなかったが、相手のお偉いさんは車で来ているにも関わらず昼間から豪快にビールを飲んでいる。この当時はアメリカも日本も今ほど飲酒運転に厳しくなかった。

その後観光ということで(同行者め、この目的でこういう日程を組んだか)ホワイトハウスや隣接する桜の公園を見学。今ならデジカメで写真を撮って残してあるだろうが、当時は写真を撮ることすら興味がなかったのでない。

ホワイトハウス

その後デンバーに飛び、シカゴに戻る際には雷雨の中飛び立ったためすこぶる揺れた。自分もその後何度も飛行機に乗ったがこれほど揺れたのはこの時だけである。吐きそうになったがガラガラの飛行機であったため、ずらっとあった空席に移りなんとか堪えた。このときわかったのは飛行機はものすごく速いので気流が悪いところを抜けるのにはせいぜい15分我慢すればいいということなので何とかなるということであった。船なら荒天なら地獄がずっと続くというわけである。

さてシカゴは一週間滞在する。郊外にあるアルゴンヌ国立研究所というところで、世界中から研究者がやってくる。一応英語はできないでもなかったが研究者としての話題があるほどのスキルは自分は持っていない。どうしたものかという感もあった。で、幸いにもミシガン湖でクルージングパーティーが行われる日というのがシカゴカブスのナイトゲームがある。一行は研究所からバスでシカゴのダウンタウンにある船着場に行き、そこから船に乗るという。幸い自分は顔も名前も知られていない。妙な土地勘には自信があったので降りたところから球場へはもちろん、球場から宿泊しているホテルへもタクシーで帰れるだろう。タクシー代は結構しそうだがこんな機会逃したらいつ次があるかわからない。

一行がダウンタウンに到着し、こっそり抜け出す。地下鉄で行けばさほど迷わないだろう。リグレイフィールドに到着。シカゴの6月はいい季節でTシャツ姿の人も多かった。ところでカブスはリグレイ一族の意向で「野球は太陽の下でやるもの」ということでナイトゲーム用の照明施設がなかった。それがこの1991年から照明が付けられナイトゲームも行われるようになった。ちょうどいい偶然ではあったが、別の日はやはりデーゲームだった。

この文章いや人生においてもなかなかの場面であるMLB初観戦だが、30年以上前なのであまり覚えていない。というか何年か前に解消したがシカゴカブスは正直あまり勝ててない球団であった。91年も決していい成績ではなかったはず。客は結構いたが負け試合、いまいち盛り上がりに欠いていた。

だがせっかく来たのでホットドッグを注文。まあアメリカに限らず日本の球場でも結構高い。決してまずくはないのだが普通に考えて高い。他もはやお馴染みになったがピーナツは殻ごと出てきて殻は椅子の下に普通に散らかしまくって品がない。

カレンダーを頼りにこの試合の結果を探索したら下記のものであった。これじゃ確かに盛り上がりに欠ける。

San Diego Padres 070 000 000
Chicago Cubs       000 000 001

まあ野球の試合なんてこんなもので大差でつまらない試合に当たることなんていくらでもある。んでまた本拠地のチームが大差で勝ってれば良かったが敵チームが勝ち、それも点が入ったイニングが合計2回しかないとくれば盛り上がりに欠けるわけだ。それに当時の自分は選手の名前もほとんど知らなかった。今Box Score見てもサンディゴパドレスのグィンぐらいだ、知ってるの。

球場を後にしてホテルまではタクシーで帰るが少しでもケチるため来る時に降りた船着場まで地下鉄に乗る。今思うと球場の近くでタクシーを拾った方が安全ではあった。日本の図式の駅前でタクシーが拾えると思ったしバスを降りた時はそこそこのところだと思ったが、ナイトゲームが終わった後の時間は結構怖い。それでも何とかタクシーをキャッチしホテルへ。40ドルぐらいだったと思う。まあ想定内か。日本円にして5千円ちょっとというところか。

ホテルにタクシーが到着すると同時に同じ駐車場に見たことあるバスが。そう、クルージングパーティーに参加した人たちのバスだ。やばい、と思ったけど前述のように自分を知ってる人なんてほぼいない。まあ大丈夫。後で聞いたところではミシガン湖は荒れてたようで船酔いした人続出だったとか。ほんと差し引き自分がいかなくて良かった。

なお、一緒に行った同僚もMLBに興味あるらしく後日デーゲームで開催されたカブスの試合を見に行ったが、やはり盛り上がりに欠けたままカブス負け。特に贔屓チームがない場合には本拠のチームが勝って盛り上がりたいところだが前述のごとく当時のカブスは弱いチームだったためどうしようもなかった。

初めて見に行った大リーグリグレイフィールドという古く伝統のある球場だったが、試合自体は盛り上がりに欠けた。この出張は二週間の滞在だったので最後の方は夢で英語を話すようになっていた。あれほど嫌で嫌でしょうがなかった海外、帰りに飛行機では閉所恐怖症もとれまた是非訪れたいと思うようにさえなっていた。これがアメリカのスタジアム巡りの1回めであり、その後7球場を訪れることになった。その話は別途書きたいと思います。

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