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木の記憶05/匂い

 匂いは記憶を強く喚起させる。古い写真を見ても、何となくその時を思い出す程度だが、匂いが引っ張り出してくる記憶は単なるイメージではなくて、360度の感覚で、その時抱いた感情さえもリアルに呼び起こす。かつては日常の中にあり、普通に感じていた空気感、でも今は完全に過ぎ去り、記憶の片隅で完全に眠っていた感覚だ。
 娘に「お父さんは木の匂いがする。」と言われたことがある。でも多分それは、木だけから来るものではない。汗と機械油、木屑の染みこんだ、汚れた作業着の匂いだ。それは単に汗臭い衣服の匂いとは明らかに違う、この仕事をしないと染みこまない独特の匂い。製材の仕事を始めて暫くたった時、自分の作業着の匂いが子供の頃に嗅いだ父親と同じ匂いがして、なんとも言えない複雑な感情がこみ上げてきた事がある。
 小学校の頃、土曜日午前中で学校を終え帰宅すると、父が昼食を取りに帰宅している。僕はテレビを見ながら“うまかっちゃん”を食べる。外は気持ちよく晴れていて、これから近所の公園で友達と遊ぶ予定だ。悩みといえば通っている剣道教室のスパルタ指導者にむかついている事くらい。明日は日曜日で、将来の不安なんて何一つない。そんな土曜の昼下がり。
 30歳目前の自分はその幼い頃の自分とは真逆の心情を抱いて日々を過ごしていた。仕事には面白みも希望も全く見いだせず、全身に負の感情をまとっていた。そんな時、自分の着ている作業着から当時の父から漂っていた匂いと同じ匂いがして、一気に小学生の自分がフラッシュバックしたのだった。20年後の自分とのギャップが堪えた。
 何十年か後、娘は同じ匂いを嗅ぐことがあるのだろうか。もしあるとしたらどんな感情を抱くのだろう。
(おふろのフタ係/佐藤栄輔)

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