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ハイコンテクスト

 ハイコンテクストとは、コミュニケーションしたり意思の疎通を図るときに前提となる価値観や考え方などが非常に近い状態のことを言うらしい。言語以外の部分も大きい。民族性とか文明度とか。

 この前提が同じだと国とかも統一しやすいらしい。

 日本で言うと空気を読めとかお察しくださいというようなこと。

 海外に行くと日本とは文化や習慣、背景にあるものがちがうので、カルチャーショックとかコミュニケーションの難しさがあるとかよく聞くけれど、実は私は日本でこそ、逆カルチャーショックがあったりする。ある意味北海道は外国で、道外に出ると戸惑うことも多い。

 北海道は開拓の地でそもそも日本の色んなところからみんな来てて、それぞれの背景もちがうので、たぶん開拓と言う共同事業をするために、言いたいことははっきり言って、それぞれの背景にこだわりすぎないということをしてきたんじゃないだろうか。だからそういう土壌があるんじゃないだろうか。

 その中でも私は裏表なく、誰に対しても率直すぎるぐらい率直で、忌憚のないご意見どころか思ったこと口に出し過ぎて怒られるぐらいな子供時代を経て今に至る。

 だから海外にいるときも、国内で外国人と接するときも、逆に付き合いやすいところがある。私の親友のポーランド人のおじさんは、自己主張が強くて、とにかくはっきりしている。中国の大学の同僚なんだけれども、

「いいか、中国人にはとにかく要求するんだ。言い訳しても、『で、どうすんだ?』ととにかく要求を続けろ。それを一週間つづければ大抵の要求は通る」

なんて私に教え込んでくる。

 なんでそこまで言うかというと、その大学では水道の配管ぶっ壊れても修理のおじさんすぐこなかったり、わりといいかげんなところも多いからだ。

 そのくせ外の業者を頼むと国際部の担当が「勝手なことするな」と言ってくるわけで、「だったら早くよこせよ」ととにかく言い続けるしかない。

 私なんて修理のおじさんの家知ってるから、家まで行って、早く来いと言ったこともある。

 でもこれが同僚の日本人はまったく逆で、彼は来たばかりの時、やはり部屋の配管がぶっ壊れて漏水。大学に修理を要求し、そのまま来るだろうと待ち続け早一か月。下の階のエチオピア人の部屋の天井から水が漏れたことでエチオピア人が苦情に行くと、日本人の部屋の床が水浸しという惨状を目の当たりにする。それでエチオピア人が怒ってやっとなんとかなった。

 でもそうじゃなければたぶんその日本人はずっと待ち続けたことだろう。日本では業者に頼めば忘れずに必ず来てくれるのだから。

 海外で生活すると日本の常識=世界の非常識で、当然なことは当然ではないってのを体感する。

 たとえば行ったばかりの頃、大学の偉い人に「なんか仕事くれ」と頼みに行ったら私の絵を見て絵の先生をやれと言ってきた。

「いやいや、専門教育受けてないし」と断ったけど、それは日本人的には断りでも中国では断ったことにならない。

「じゃ、まず専門教育必要かどうか聞きに行こうぜ」となる。

で、美術学部に面接行ったけど、やはりあまりにも素人すぎて不合格。

すると今度は

「じゃ、専門教育いらないところで教えればいいじゃん」となり、私は初等教育学部でなぜかトトロやドラえもんの書き方を教えることとなった。

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 つまりどういうことかというと、はっきり「いやだ」とか「やりたくない」と言わない限り、拒絶の意味にはならないってこと。
 
 何か問題があるようならそれを解決していこうってのが向こうの考え方。だから断るならばはっきり「やりたくない」「やめます」という意思表示が必要。

 まあ私は別にやりたくないまでではなかったし、やってみたらおもしろかったから別によかったけど、これが日本人的な「お察しください」とかではっきりNOを言えない人だとずるずるやりたくないことでもやるはめになる。

 私はむしろこういうはっきりNOを言ったり意見を示せる場の方が実は楽で、逆に裏を読まなければならなかったり、言わなくても相手の意図をくみ取って良きに計らうとかが苦手。

 前に日本で大好きな男の子を車でいつも送ってたら、「お母さんが迷惑かけちゃいけないって遠慮してるんで」と言われたけど、この「迷惑だろうから」と決めつけられるのも嫌い。何が迷惑かは本人に聞かなければわからないわけだし、むしろ私は彼と一緒にいたいから送り迎えを申し出ていたのだ。

 結局そのお母さんは悪い虫がつくのを防ぎたいから「相手に迷惑でしょ」という言い方をしたんだろうけど、そういうの嫌い。はっきり「迷惑なんでやめてほしい」と言えばいいのにと思う。

 実際、私は中国人相手でも、「ご迷惑でしょうから」と遠慮されると「うるせー!迷惑かどうかはわしが決めるんじゃい!」と言い、相手が嫌かどうかだけを確認する。

 でもこれが日本人だと嫌でも嫌と言わないで我慢するということも発生する。なので「いやならいやとはっきり言っていいですよ」と言ったところで、それすら言えない人にはストレスになってしまうわけで、そうなるともうどうしていいかわからない。

 世代間、男女間、色々あるけれど、その前提となる相手の常識や背景を理解しないことには共通認識や感覚をもつことなんてほとんど不可能。だからこそ話し合うことが必要だけど、欧米とちがい、議論や討論の教育を受けていない日本人にはハードルが高いんじゃないのか? 言わなくても察してもらえる狭い範囲の文化圏で生きてきた日本人にとってはそもそも必要なかったことなのでは?

 でもここでふと思ったのが、前夫との生活だ。彼は発達障害の傾向があるというか、まあ、独特の考えを持ってる人で、なんていうかこちらが普通と思っていることがなかなか通じない。

 簡単な例をあげると、私が二度目の流産をしたとき、一度目の流産で学習した彼は、痛み苦しんでいる私の横で寝ようとした。それを咎めると、

「でも前回と同じように今回も朝までできることはないし、朝になったら病院に連れて行くので体力を回復させるべきじゃないですか。二人で徹夜して体力を消耗しても仕方ないでしょう」

と言われた。

 まあそれはもっともだけども、なんていうか、こっちが泣きながら苦しんでいる横でよく寝れるなぁというか、同情してくれじゃないけど、気持ち的にもっと寄り添ってもらいたかったのだ。どうにもならないことだとしても、二回連続流産はつらい。何より二人の子供が今流れようとしているのだ……。それなのに

「でも私が一緒に起きてて、それで流産が食い止められますか?」

と言われた。

 まあ、正論だし、彼としては今自分ができるベストなことは寝て体力を回復させることだったんだろう。確かにとなりで背中をさすられようが「だいじょうぶか」と言われようがそれで奇跡がおきるというわけではない。でもなんだかなぁ……。

 ただこれも自分の中の常識という価値観で、こういうとき優しさとしてこのように表現するものだと自分の認識の範囲のことを相手に要求していただけだ。でもこの時の私は、「なぜ伝わらないのか、なぜわからないのか」と、カルチャーショックどころではないパニックだった。

 近所のアスペと話したときも恐ろしく話が通じなくて消耗したことがある。でもそれも結局相手がどうしてそういう考え方になるのかなど理解してないから、「自分とはちがう、普通じゃない、異常だ」となってしまった。

 まあちょっとここまでくると話が飛躍しすぎなのかもしれないけれど、ハイコンテクストが成り立たないというのはかなりきついもので、特に夫婦とか一番以心伝心でいたい相手とそれができない孤独というのは計り知れないものがある。

 相手がマイノリティならば、「そっちが普通じゃないんだ」と相手を異常者扱いしやすいけど、それって単に全体的な数の問題で、もしもじゃあ私が私と共通感覚を持つ人がまったくいない世界に行ったらどうなんだろうと考えると、「ほんと普通って何?」と思う。

 歴史を学ぶとその時代によって同じ国の同じ民族であっても前提となる常識はや背景は異なるということもよくわかるわけで、とにかく自分は「自分が普通」という考えだけはもたないように、それを押しつけないようにしたいとだけは思う。

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