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「生きてりゃなんとかなる」

 「人間生きてりゃなんとかなる」と思うに至った、八重さんの貧乏時代の話。
 
 大学卒業のあの頃は、就職氷河期でした。アメリカでリーマンショックというある種のバブル崩壊が起き、世界中の景気が悪かったのです。
 なかなか就職が決まらない中、秋ごろに「友達の、研究室の教授の、友達の社長」というよくわからない他人と知り合いました。まあ、とにかく社長です、社長。彼は言います。「うちは小さな旅行代理店だが、近いうちに新たにホテル事業を立ち上げる。そのマネジメントをする人材を育成したい」と。
 ほほお。と思ったのもつかの間。社長と何度か喫茶店で話しているうちに、気が付くと八重さんはあの幻の秘宝「内定」を手にしていたのです。ありがたや。
 
 ところが、……そうは問屋が卸しませんでした。リーマンショックも冷めやらぬ日本を東日本大震災が襲ったのです。避難所二泊からなんとか無事に帰宅した八重さんを待っていたのは「業績がガタ落ちして先も見通せない。新事業どころではなくなってしまった。すまない。」という社長の言葉。そうです、「内定取り消し」です。新年度、4月2日のことでした。
 
 そこからは「就職浪人というか無職」生活のはじまりです。いかんせん、卒業はしてしまっているし、新年度なので新卒採用もされていないし、そもそも景気は前年より一段と悪いし、仕事なんて見つかるわけがない。
 仕事がなければお金もない。そこで沢田アパートという超激安アパートへ引っ越しました。
 それまで4万とか5万とかのアパートに住んでいたのですが、飲み友達の紹介で「風呂トイレ共同、玄関も洗濯機も共同。部屋にカギはついてないし、広さは四畳半。築年数も不明の木造アパート。ただし、お家賃1万5千円」という激やば物件に引っ越したのです。生きた化石のような物件です。

 でもね、つらくはなかったな。大家さんが神様みたいなおばあちゃんだったから。近頃じゃ絶滅危惧種の家賃手渡し方式で、大家さんの家に行くんです。すると、きっと孫扱いなんでしょうね、お菓子がたくさん出てきてお茶飲みながら雑談するわけです。でね、こう言うんです。「なも家賃いらねじゃ、おめの仕事決まったほうがよっぽどさっぱするはんで」って。つまりね、「八重さんの仕事が決まったら安心してさっぱりした気持ちになるから、それまでは家賃いらない」って言ってるんです。毎回、目頭を熱くしながらお茶をすすったなあ。
 仕事決まった時に全額払ったけど、大家さんってば「こったにもらわいねじゃ(こんなにもらえないよ)」とか言うわけです。いやいやいや、自分で保留にしておいてくれたのにねえ。笑っちゃうくらい良い人でした。
 
 さて、無職。とかく貧乏。履歴書を買ったり就活用の証明写真を撮ったりするお金も苦しいし、そもそも日々の食事を食べたりするお金もいまいちない。短期バイトと就職面接の繰り返し。あとは読書でもして静かに、腹が減らないように暮らしてました。絵に描いたようなその日暮らしでした。
 主食はおから。一袋の元値六十円で、半額の三十円になるまで待ってから買ったもの。これを三食に分けて食べます、一日二食で。こうすると二袋六十円で三日は食えるんです。
 そんなことをしていると、見るに見かねて、助けてくれる人がちらほら現れました。イベントで余ったパイ生地をくれる知り合い。「八重君、困ってるんだって?」と小さめの米袋と大量のレトルト食品を差し入れてくれるアパートの仲間。行きつけのバーの店長が「最近まともに食ってないんだろ?」と焼肉を企画してくれたこともありました、「サーバーも持ってきたからビール好きなだけ飲んでよ、ピザの出前も取ったんだ」だなんてね。
 いやはや、情けないやら嬉しいやら。恥ずかしながら支えられつつ、なんとかかんとか生きてました。 

 そうやって、職に就けるまでの約半年の間、「お互いさま」の言葉に甘えて、人情ってやつを全身で浴びていました。ああ、ぼかぁ「お互いさま」と言える人になりたい。
 確かに、たまたま良い人たちに巡り合えていて、たまたま良い付き合いができていたから、ってのはもちろんある。だけど、案外なんとかなるもんです。震災とひと続きで価値観が激変した、忘れられない日々でした。
 
 これは波乱の半年間「なんとかなる、とにかく生きてりゃなんとかなる」って自分に言い聞かせて、それがある程度真実だと気づいたってお話。

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