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木枯らし紋次郎に想う(随筆)



最近、木枯らし紋次郎がYouTube にアップされている。
私が中学生の頃、テレビで放映されいた
人気の時代劇だ
「あっしには、関わりのねえ事でござんす」は
その当時の流行語。
だが、最後には関わりその人を助ける
ある友達が
「どうせ助けるなら、直ぐに助ければ良い」
と、言っていた。

そう言えば、水戸黄門も最初から印籠を出せば、直ぐに解決出来るのに、
最後にしか出さなかった。
番組の編成としてこの様にしないと、45分持たない。

だけど、私はこの様に想っていた。
「紋次郎は本当は関わりを持ちたく無い」のであろうと。
「他人の事など自分には関係ない!」と、
強く想っているのでは無いだろうかと。

紋次郎は生まれて間もない頃に、親に殺されかけている。
しかし、殺されかけた紋次郎を姉が助けてくれる。
その姉も、嫁ぎ先で虐めを受け病になり、若くして死を迎える

「親ですら、自分を殺す。ましてや他人など信用出来ない。
関わりたく無い」
と、考えるのは当然であろう。

この様な生い立ちの紋次郎は、無宿人となって旅を続ける

何処に行くあてもない旅である。
「他人の事など知らない!」
と、思うのは自然な事であろう。

だけど、紋次郎は最終的に困っている人を助ける。
その紋次郎の心中の葛藤は如何なるものか?

クールに装い、表情には出してはいないが、心の中では、
揺れに揺れ動いている、と 想う

真実の紋次郎は本当は優しく、人の好きな人間。
「人に甘えたい!」と云う気持ちを心の奥に秘めた人

それは、自分を助けてくれた「姉への恋慕」があるからでは無いかと!


冷たく装う姿であっても、本当は優しく、人間を好きな紋次郎に
多くの人が魅了され、人気のテレビドラマになったのでは無いだろうかと!

もし、紋次郎が困っている人を見捨て、自分だけの男であったならば、
ヒットもせず、今も語り継がれる事のないドラマになっていたのでは無いかと、
想う。

「人間」と云う言葉は、人しか用いられる事のない言葉である。
犬や猫に「間」は付かない。
「間」が付くと云う事は、決して一人ではない。
人が人と関わるが故に、人間となる。
だとするならば、戦いの「間」では無く、友好の「間」を築きたい。

人同士が無関心になってしまったならば、恐ろしい世界になる様な気がする。
「愛」の反対語は「憎しみ」では無く、「無関心」だと想うから。

人が人に無関心になってしまったならば、殺伐とした社会になってしまう。

昭和三十年代の様に、人と人が繋がっていた頃が懐かしい。
以前あった映画の様に、ほんわか出来る時代が懐かしい。





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