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バカ殿は、バカなのに殿である

偉そうに振る舞う権利?

偉ぶるにはそのための裏付けが必要だ。同じ会社の同僚や、同じクラスのあいつが、なぜか偉そうに振舞っているとき、その人は自分の頭の良さや見た目の良さ、スポーツが得意であることを理由にして偉ぶれている。

もし、偉ぶられていた人たちが反旗を翻せば、その「偉ぶり/偉ぶられ」の関係性は変化するかもしれない。偉ぶりの裏付けの質によって、反旗を翻す困難度は変わる。

バカ殿はバカなのに殿でいられる

これは国家権力にも当てはまり、なぜ最高権力者が最高に権力を握っているのか?という理由がハッキリしていなければ、その人は権力の座を追放される。

ここまでの説明を一言で表すのが、「正統性」という言葉だ。人々は権力の正統性がある人間の命令にだけ従う。

バカ殿が殿でいられるのは、殿の個人的な資質とは無関係で、殿の出自にその理由がある。バカ殿の祖先の誰かが国をまとめていたりすると、その威光によって、バカでも殿でいられる。そしてそのとき「血筋」の概念も必要だ。良い血筋、つまり血統書付きでなければ、殿にはなれない時代にバカ殿は生きていた。

偉さを決めるシステム

民主主義は選挙によって権力者を選ぶ。そのとき、権力者を選ぶシステムそのものの正統性も確認しておく必要がある。それを確認するために、人々は歴史を学ぶことになる。
ぼくは個人的に歴史を学ぶ意義を感じているんだけど、ぼくが感じている意義とは別に、国もそれなりに、国民には国の歴史を学んでほしいと思っている。だからこそ、義務教育には歴史の授業がある。

歴史の授業は、なぜ我々がいまのスタンスで権力者を選んでいるかを教えてくれる。「はい。これで良いですね?このようにして我々はいまのこのシステムを選び、それを最適化しながら、権力者を選んでいるのです。だからこそ、偉い人は偉いのです」

さて、国家権力以外にも偉い人は多い。これまでの仕事の実績や個人のプロフィール、出自などによってその「偉ぶり」は正統性を担保されている。

ぼくのように無名の人間が偉そうに語ることは普通、許されていない。昔から丁稚が「偉そうに語ること」は許されていなかった。社会性を考慮するなら、偉ぶらないようにモノを言ったり書いたりするほうがスマートだ。

偉ぶりの裏付け

ある主張を持っているとき、偉そうに語るよりは偉ぶらずに謙虚に語るほうが、多くの人が耳を傾けてくれる。偉そうに語るにはそのための証明書が必要だからだ。

しかし、その正統性を保つ手段は時代とともに変化する。儒教の観点からいえば、若造が年上に向かって偉そうに語ることは許されない。しかしいまは儒教的観点で見る人が減って、学歴やビジネス的な成功のほうが裏付けになっている。世代が入れ替わったことと、経済的しんどさが続いているからだろう。

ここでもし、無名の誰かが「人を巻き込む言葉づかい」や「思わず納得してしまう論理構造を組み立てること」ができれば、裏付けは作れるかもしれない。すごい情報を持っていたり、圧倒的な努力など。これはバカ殿の血統書に比べれば得られる確率は高い。でもそこに至る競争は激しく、難易度は高い。目に見える形で裏付けがなければ、多くの人に認めてもらう状況は訪れにくい。(しかしだからこそ、実力で人を見ることのできる人が長である組織は、変化を生み出し、新鮮な世界をもたらしてくれる)。

ここまでの話をビジネスに落とし込むと、この「偉ぶれる権利」の裏付けをつくる努力とは、ブランディングのことだと思う。「偉ぶり」というと、鼻につく感じだが、なにかを発信することに伴う「主張」はどうしても、偉ぶりを醸し出してしまう。

同じように偉ぶったときにも、話を聞いてもらえる人と、聞いてもらえない人がいるのは、そのブランディングがうまくできているかいないかの違いでしかない。

私だけの最高級ブランド

子どもがどんなにわがままを言っても、親がそれなりにその子の話を聞こうと思うのは(全員じゃないが)、親が「自分の子」の価値を信じているからだ。親にとって、自分の子はブランドチャイルドである(たぶん)。しかし子どもがそこで「自分の意見は全ての人が聞くべきことだ」と勘違いしたまま大人になると、親以外の他人は自分のわがままを受け入れてくれないから、社会で生きることが大変になる。このへんの「自分の価値」のバランスはとても難しい。

上から語る恐怖と下から聞く我慢

下手(したて)に出ながら生きていくのは、自分の意見を主張しなければ容易にできる。でももし自分が意見を持っていて、それを主張したいなら、それを主張できる裏付けがどうしても必要になる。主張にはそれを支える論理と、論理を組み立てるためのデータや事実が必要だが、それを省けるのが権力者の権力者たる所以である。(そういえばぼくはいつもデータ不足)。

そしてもし、確固たる裏付けもないのに偉そうに語れば、「は?」と冷たい目で村八分にされるのは容易に想像できる。主張するためには段の上に上がる必要があり、段の上に上がるなら裏付けが必要になる。
まともな感覚を持ち合わせているなら、裏付けもなく偉そうに語ることには恐怖が伴う。

将軍が地位を失い、戦争で政府の中枢がゴロッと入れ替わったとしても、ヒトの脳みその構造は変わらない。だから、「権力の裏付け」「偉ぶりの裏付け」は、人間が社会的に生きていくかぎり、ずっと必要であり続けると思う。「いま誰の命令を聞くと損をしないか?」を判断することが、時代を生き抜く術のひとつだ。それ以外の道は、孤独に生き抜く術を見つけることだが、孤独で協力者を見つけられなければ、生き延びれない可能性も飛躍的に高まる。

時代とともに変化するのは、その裏付けになり得る何かだ。足の速いヤツが偉そうにできるのは小学生までだし、血統書付きでバカ殿になれたのも、江戸時代までである。その裏付けを何にするか?が、曖昧だと、権力者の権力も曖昧になっていく。

ところで。

ぼくの理想は、「偉そう」という言葉がなくなって、主張したい人が揶揄されずに主張できる世の中です。なんとなくこの文章を読んで「黙れ」という意味に取れてるとしたら、それはすみません。

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