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最後まで辿り着いても読み終えてはいない

自分の書いた文章は自分だけはひととおり最初から最後まで読み終えているものだが、読む人がそれを書いたとおりの順序で読んでくれるとは限らない。最初だけ読んでそれから先は読まないとか、最初と最後だけ読んで読まないとか、人それぞれである。

そのことに気づいたのは自分がネット上で他人の書いた文章を読むようになってからだ。
あるリンクをクリックして文章が書かれたページを開くのに、文章をじっくり読むことはほとんどなく、大半を読み飛ばしている。スクロールするほうに意識の半分を取られ、「最後まで読んでいただきありがとうございました」の一文に出会って終わりまで来てしまったことに気づく(4ページに分かれている記事の「4」を2回クリックして読み終えたことに気づいたこともあった)。で、結局この文章は何が言いたかったのか?と遡っていくと、最初の一文に結論が書かれていたり、要約されていたりする。要するに、ほとんど何も読んでいないのだ。

ぼくだけかもしれないが、クリックしてそのページを訪れたのに、何も読んだ気にならずに帰ってしまうことが多々ある。あとで読もうと思ってブラウザのタブは無数に増えていくわりに、一度離れたページに戻ってくることは二度とない。1日の終わりにパソコンを閉じる段になってはじめて、まるっきり読んでいなかったことに気づく。スマホにいたってはブラウザを閉じてもそれらのページが消えることはないので、一年間読まなかったものが未だに残されている。

「最後まで読んでいただきありがとうございました」という文言が繰り出される理由は、最後までスクロールしてくれた人は最後まで読んでくれたに違いないと思うからだろうけど、実際はほとんど読まずにただスクロールしただけの可能性がある。スクロールすることによってこのブログはどれくらいの長さで書かれているかを確認し、なんとなく、ぼんやりと印象だけを掴んで帰っていく。そしてその印象がすごくよければ「いいね」をしたり、「よかった〜」と呟くかもしれないが、ほとんど読んでいないので内容を覚えていない。いや、そんなふうに適当に読んでいるのもぼくだけかもしれない。
ビッグデータの時代なのに、いまだに自分の感覚だけに依存しているぼくは、時代遅れの何者でもない。しかしビッグデータの時代ならビッグデータの申し子にすべてを託せばよく、ビッグなデータを集められない個人は、自分の感覚を大事にすればいい。そんな感じでいま文章を書いている。適当である。

この文章も適当に読まれるだろうと思って書かれているが、どの段落から読んでも読めるようになっている。なぜなら、段落ごとの論理が絶妙に結合していないからである(自信満々で言うことではない)。

とにかく、文章はほとんど読まれていない。読まれないことを最初から考慮するから形式段落が採用されることになり、軽々と改行が行われることになるのだが、それによって加速するのはスクロールのスピードだけである(断言)。まさに、行間ばかりに目がいくのだ。

しかし詩のように段落をぽんぽん変えていくと、その文章は詩のように解釈可能なものになる。だからブログの大半は「ポエム」と揶揄されてしまう。改行の仕方がポエム的なのだ。改行を繰り返していると文章がポエムになってしまう。ポエムの何が悪いんだ!と怒る人もいるかもしれないが、ポエム的に解釈されたくない文章をポエム的に解釈される可能性があるという話である。言いたいことや伝えたいことがある場合、ポエム的に書いているとふんわりとした印象しか与えられない。読者ごとに解釈の幅が生まれる。解釈の幅を生みたいならそれでも構わないが、それで誤解されて「アホですやん」と言われたときに、「全然読めてない」と言うのは筋が通らない。「全然読めてない」と言い返したいなら、「解釈が一義的になるような道筋」を提示すべきで、それができないかぎり、批判してきた人に対して「そう読めるわけがない」と反論することはできない。

ここまで書いてきて、自分には何も言いたいことはないような気がしたけど、「文章は読まれないことを前提に書くべし」ということが結論ではない。それだけは書いておこう。「読まれない」という前提から具体的な文章を書くときに、ポエム的改行を多用すると、読み手のスクロールするスピードが加速するということだけを言いたい。読み手のスクロールスピードが加速すると、読み手はその文章をほとんど何も読まない。文章の香りだけをほんのり嗅ぐような感じで去っていく。もしくは、「最後までお読みいただきありがとうございました」の一文だけをしっかり読むことになる。


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