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考えたことを書いてしまうリスク

ここ半年くらい、noteになにも書いていない。1年前2年前に書いた記事がごく稀にいいねされることもあって、読んでくれている人がいるなあと思ってはいたのだが、じゃあ新たに何か書くか、という気にはならなかった。

noteにはだいたい、その時点で考えたことを書いていたのだが、本来ゆらゆらと漂っているはずの「考え」は、文字に落とし込んでしまうと固まってしまう。気体ならば誰にも伝わらないのだが、固体になると伝達が可能になる。誰かに伝わってしまう。
自分がむかし書いたものをいま読むと、全然同意できないことがある。だから、アホなことを書いて、それが明確に固体化してしまうのはおそろしいことでもある。これを読んだ人が「なるほど、この書き手はアホな人なのですね」と判断する材料を与えているかもしれないのだ。

過去のツイートを掘り返されて炎上している人も同じだろう。ツイートしなければゆらゆらと思っていたことは炎上のネタにはならなかったはずだ。

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ぼく自身は炎上するようなことを書いたつもりもないが、それは今だから言えることで、さらに数年経ったらどうなるかはわからない。

「価値観のアップデート」みたいな言葉が使われることがある。個人的にはあまり好きな言葉ではないのだが、要するに「大事だと思うものを変える」という意味だ。時代ごとになんとなくの空気で「ヨシ/ワロシ」とされるものが変わっていく。「アップデート」という言葉には、個人も時代の雰囲気にあわせて価値観をあわせるべきだという圧力もこめられている。「価値観を時代にあわせるかあわせないか、それはあなたの自由」ではない。「価値観は時代にあわせなければならない」なのだ。ぼくがこの言葉を好きになれないのは、その無言の圧力を感じるからである。

価値観とは本来、人によってそれぞれちがうものなのだから、時代によってコロコロとかわるものでもない。それがコロコロと変わるのは、「何が大事かを自分で決めてないから」というのが理由のひとつだろう。常に時代の空気に価値観をあわせていると、何が大事かは空気が決めてくれるということになる。判断することを他者にアウトソーシングしているとも言える。一度それをやってしまうと、常にアップデートしつづけないと不安になってしまう。ぼくも不安である。

価値観がコロコロ変わっていくものだとすれば、自分の考えを書き記すことはリスクがある。2045年で生まれた価値観的にこれはアウトです、ということになりかねない。2022年の段階でセーフなら、2045年に何を言われようともセーフだと思うのだが、昨今の風潮で考えると、1990年の段階でセーフでも、2022年の段階でアウトならアウトになります、というのが一般的になってきている。

サブスクリプションで音楽を聴いたり映画を観たりしていると、時代区分がごちゃごちゃになっていく。2000年の作品と2022年の作品が横に並び、そしてその制作年はほとんど気にされることがない。そうなると、どの作品も2022年の価値観をつうじて見てしまうことになる。だから2000年の段階でセーフなものが、2022年の段階で見ればアウトだとジャッジしてしまうのだ。セーフとアウトの判定が時代を超えてしまうのは、こういう環境が当たり前になっているからだと思う。

しかし逆に考えると、時代区分に関係なく過去の映画作品を観ているとすれば、過去の価値観を自分の中に「インストール」することも可能ではある。そうやってインストールした過去の価値観で現在のさまざまな事象を見ることも可能なはずなのだが、実際にそういう人は少ない。映画作品は実は、価値観形成にそれほど関係ないのかもしれないし、価値観が形成されるほど大量に過去の作品を観ている人はほとんどいないだけかもしれない。

話を考えの固体化のほうに戻すが、ぼくも過去とは考えが変わってきている。アップデート、ということを意識してやったわけではなく、単純に本を読んだり人の話を聴いたり、日々の生活を過ごしていく過程で、考えが変わってきた。「批評」について書いたものと、「消費」について書いたものは微妙だなと思っているのだが、とりあえず消さないでおく。

しかし、考えが変わったかどうかは、実は書き記さないとそう明確にはわからないものだ。過去の自分をアホだと思えるのは、過去の自分がその時点で考えたことを書いているからだ。その意味で、考えを書くことには意義がある。人からはアホだと思われ、未来の自分からもアホだと思われるのだから、メリットと同じかそれ以上のデメリットも伴うのだが、書きしるすからこそ、本を読んだり人に会ったときのアンテナの感度も高まるのだ。あのときはこう書いたけど、違う見方があったなと気づけるのは、一度書いているからなのだ。なにも書いていないと、「オレもそう思ってました!」と言えてしまう。

「オレもそう思ってました!」はなかなか攻撃力がある言葉だ。書いた人はおそらく、あれこれと考えをめぐらし、力技で文章をねじふせるようにして書き上げている。しかしそれに一言「オレもそれ考えてました〜」と、軽く言うのは本当にお気楽である。これは誰かを批判したいわけではない。ぼく自身がよく「それオレも考えてました」と思っているのだ。

しかしここで「具体的にどう考えていたのか?」という問いを投げると、同じことを考えていたはずの自分は、なにも説明できないのである。自分の考えを文章に落とし込むのは力技である。力がないとなにも説明できない。「それ思ってました」は力がなくても言える。

何かを書いて人からアホだと思われるリスクを取るよりも、「それオレも考えていました」と言いながら時代を生き抜く方法もたしかにある。これなら、価値観のアップデートもお手の物である。価値観の本当のアップデートは外注しておいて、価値観がアップデートされたら、「オレも最近はそうだと思うんだよね」と言っておけば良いのだ。これもなかなかにアホっぽいが、時代を生き抜く(?)こと自体が目的なら目的は達成される。



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