黄帝内経素問集注(五臟別論篇11-2)

翻訳

帝王が言いました。「どうして気口がなぜ五臓の主であるのですか。」
(気口は、手の太陰の脈の口です。五臓の気は、すべて気口で変化して現れます。だから五臓の主と言います。ここで言っているのは、食べ物や水が胃に入り、それによって五臓を養うことです。五臓の精気は脈にも栄えており、そして気口で現れるのです。水や食べ物の中で清らかなものは、五臓を栄えさせます。濁ったものは六腑から排出されます。清らかな中の清らかなものは、経脈に栄えます。濁った中のものは、腸や胃、膀胱に伝わって変化します。この節では、飲食物が胃に入る過程で、清らかなものと濁ったものが上下に分かれて出入りすることがあると述べています。奇恆の臓もまた、清らかな中の清らかなものを受け取るのです。)

岐伯が言いました。「胃は水穀の海であり、六腑の大元です。五つの味が口に入り、胃に蓄えられ、五臓の気を養います。気口もまた太陰です。そのため、五臓六腑の気味はすべて胃から出てきて、気口で現れます。」
(水穀が胃に入ると、足の太陰の脾臓から転じて四つの臓器に水や栄養を供給します。しかし、水は胃に入った後、手の太陰の肺を通じて四肢に調節されます。一方、食べ物は胃に入ると脈に栄養を供給し、肺が百の脈を支配し、皮膚や毛髪に栄養を送り、毛細血管を通じて臓器に気を運ぶのです。このようにして、五臓六腑の気味はすべて胃から出てきて、気口で表れます。そのため、気口もまた太陰であると言います。手の太陰は水穀の精を運び、そして手の太陰もまた胃を通じて五臓の気を養うのです。このため、五臓の気はすべて気口で現れます。)」

ですから、五つの気が鼻に入り、心肺に蓄えられます。心肺に病気があると、鼻はそのために悪くなります。
(心肺は上に位置し、陽性です。肺は心を覆うもので、気を司り、鼻に開口しています。そのため、臓腑の象徴論で説明されるように、味は陰に帰し、気は陽に帰すとされています。『道書』にも、「鼻は天の扉、口は地の扉」と述べられています。)

病気を治療する際には、必ずその人の排泄物を注意深く観察します。
(ここでの「下」とは、腸や胃から出てくる尿や便を指します。『玉機論』によれば、五臓の過剰な状態が続くと死に至り、五臓の不足な状態もまた死に至ります。腹が膨れ、前後の通り道が詰まる状態や、気が運ばれずに気を失う状態を「過剰」と呼びます。一方、前後の排便が続いたり、食事や水分の摂取が減少する状態を「不足」と呼びます。食事が胃に入り、排泄が止まれば、不足の状態は改善します。また、発汗と後ろの排泄が同時に起これば、過剰の状態が改善します。また、「倉廩が食糧を保管しない場合、門戸が不要である」と言われています。保管できる者が生き残り、保管できない者が死ぬという意味です。このため、病気を治療する際には、必ず排泄物の状態を注意深く観察するべきです。)

そして、その脈診を行いましょう。
(太陰の気口の脈を調べて、臓腑の気の状態を判断します。)

さらに、その人の心情を観察し、病気と関連付けて考えましょう。
(心情とは、精神をコントロールし、魂魄を調え、寒暑や喜怒を調和させる能力を指します。そのため、その人の心情を観察し、病気との関連を考えるべきです。ただし、神秘的な事柄に固執している人には、至高の道を説明することはできません。また、鍼や石の治療法に嫌悪感を抱いている人には、極めて高度な技術について語ることはできません。)

そして、治療を受けることを拒否する人に対しては、治療は成果を上げないでしょう。治療を行っても何の効果もないでしょう。
(その人自身が精神を通じて神秘的な力とつながることができない場合、外から鍼や石を使って治療し、内から湯や薬を用いて治療するでしょう。逆に、鍼や石に嫌悪感を抱く人には、湯や薬による治療も効果がないかもしれません。上述の七篇では、陰陽や臓腑の状態について論じていますが、臓腑の陰陽の病気を治療するためには、証拠を見極め脈を判別し、鍼や石、そして醪醴を用いて治療する方法があります。病気が外にある場合は鍼や石で治療し、内にある場合は醪醴や湯液を用いて治療します。神秘的な力を通じて病気を治癒させたい場合も、精神を移し氣を変じる必要があり、その後で神秘的な力とつながることができるようになるのです。このため、この篇の最後には、神秘的な力に固執している人には至徳を語ることはできず、鍼や石に嫌悪感を抱く人には至巧を語ることはできないと述べています。これは前の文章を受け継ぎながら、新たな視点を提供しています。)

原文

帝曰:氣口何以獨為五臟主。
(氣口。手太陰之兩脈口。五臟之氣。皆變見於氣口。故為五臟主。此論水穀入胃。以養五臟。五臟之精氣。複榮於脈。而見於氣口也。蓋水穀之清者。榮於五臟。水穀之濁者。出於六腑。清中之清者。榮於經脈。清中之濁者。複傳化於腸胃膀胱。此節論飲食於胃。有氣味清濁上下出入之分。當知奇恆之府。亦受清中之清者也。)

岐伯曰:胃者。水穀之海。六腑之大源也。五味入口。藏於胃。以養五臟氣。氣口亦太陰也。是以五臟六腑之氣味。皆出於胃。變見於氣口。
(水穀入胃。由足太陰脾臟轉輸。以灌溉四臟。然水入於胃。又由手太陰肺藏之通調四布。穀入於胃。淫精於脈。肺朝百脈。輸精於皮毛。毛脈合精。行氣於臟腑。是五臟六腑之氣味。皆出於胃。變見於氣口。故曰氣口亦太陰也。言足太陰轉輸水穀之精。而手太陰亦為胃以養五臟氣。是以五臟之氣。皆見於氣口也。)

故五氣入鼻。藏於心肺。心肺有病。而鼻為之不利也。
(心肺居上為陽。肺乃心之蓋而主氣。開竅於鼻。故引臟象論。而言味歸陰而氣歸陽也。道書云。鼻為天門。口為地戶。)

凡治病。必察其下。
(下、謂腸胃水穀之所出也。按玉機論曰:五實死。五虛死。腹脹。前後不通。悶瞀。此謂實。泄利前後。飲食不入。此為虛。漿粥入胃。泄注止。則虛者活。身汗得後利。則實者活。又曰:倉廩不藏者。是門戶不要也。得守者生。失守者死。是以凡病必察其下二便也。)

適其脈。
(調適其太陰氣口之脈。以決臟腑之氣。)

觀其志意。與其病也。
(志意者。所以御精神。收魂魄。適寒溫。和喜怒者也。故當觀其志意。與其所受之病焉。)

拘於鬼神者。不可與言至德。
(拘於鬼神者。欲其祝由而愈病也。然祝由之道。移精變氣。以我之神而通神明。若惟拘於鬼神之事。不可與言至德矣。)

惡於針石者。不可與言至巧。
(用針石者。有至巧之妙道。)

病不許治者。病必不治。治之無功矣。
(不能藏此精神以通鬼神。當以針石治其外。湯藥治其內矣。若惡於針石。不許治以湯藥。治之亦無功矣。按以上七篇。論陰陽臟腑。而臟腑陰陽之病。必須審証辨脈。治以針石醪醴。是以下編論五方有五治之法。病在外者。治以針石。病在內者。治以醪醴湯液。即欲祝由愈病。亦須移精變氣。而後能通於神明。故此篇末結曰:拘於鬼神者。不可與言至德。惡於針石者不可與言至巧。乃承上起下之文也。)

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